<閑 話 休 題> 2
るか

 周知の通り、日本で最も大きなマルクス主義を柱とする政党は、
日本共産党ですが、これも1920年代に、おそらくはコミンテル
ンーソ連の支援のもとに非合法に結成されたものです。現在の
党員数はおよそ40万人程度であるといわれています。ちなみ
に民主党は20万人程。あくまで独立した組織ではありますが
、この政治団体と関係があると言われているのが「詩人会議」
ですね。荒地派の主要メンバーであった、黒田三郎は、のちに
このグルーブの議長を務めました。「列島」もまた、マルクス
主義と深い関係を有したグループでした。
 戦前は非合法化され激しい弾圧を受けた日本共産党ですが(
この間にたとえば小林多喜二が虐殺された)、戦後になって合
法化されるとともに内部における路線対立が激化します。この
対立は党と深い関係のあった新日本文学会をも巻き込み、作家
の大西巨人と宮本顕治との間に論争が惹起されたり。宮本は文
芸評論家であり、芥川賞にノミネートされた経歴も持つ活動家
で、戦時中は収監されていました。その後宮本は党書記長に就
任し、長く党の指導者として活躍します。
 マルクス主義は一枚岩ではありません。戦前のヨーロッパに
おいても、レーニンやらトロツキーやらローザ・ルクセンブル
グやらカウツキーやら、多数の思想家が独自の解釈を展開して
いました。それがソ連の成立によって若干統一されてくる。し
かしその統一は、スターリン主義的な統一に他なりませんでし
た。
 戦後になると党内対立とも関連して、スターリン=ソ連の方
向性を批判する新しいマルクス主義の息吹が現れます。この日
本における先陣を切ったのが、対馬忠行であり黒田寛一であり
、荒地派の後発組であった吉本隆明です。スターリン主義への
批判は1956年の「スターリン批判」を境に激化し、学生層
を中心としたニューレフト(新左翼)の団体が次々と生まれま
す。日本のニューレフトにとって最大の争点は、日米安全保障
条約でしたが、たとえば文芸評論家の柄谷行人は60年安保闘
争時に社学同(社会主義学生同盟)の活動に深く関係し、当時
、駒場寮で同室であった西部邁は、全学連の委員長を務めまし
た。
 余りにも多数の文学者が関係したのが日本のマルクス主義運
動です。それが、ソ連崩壊によって急速に権威を失ったため、
現在の若年層には、巨大な記憶の空白が生じているように思わ
れます。以下、不定期的にはなりますが、閑話休題と題しまし
て、マルクス主義と文学との関連についてレポートしてゆきた
いと思います。




散文(批評随筆小説等)  <閑 話 休 題> 2 Copyright るか 2011-01-30 12:49:20
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