わたしが好きな詩人 ミーハー主義的雑文 3−2
るか

 詩は、時代を映す鏡であり、また、たえず時代を告発し、批判するものだ、
ということが、古くからいわれています。時代とは諸社会の歴史を織り成す
一層であり、詩人の<存在と作品と>を、この側面からみつめ受容すること
が可能です。言語というものが本質的に社会的にして精神的な行為である以
上、言語規範の侵犯者=創造者でありうる詩人は、言葉を通してかあるいは
直接的行動においてか、既成の社会秩序を超出せざるをえません。どんなに
時代から、即ち社会から隔絶し、孤立した道を行くようにみえても、また世
間から全く受容をされなかったとしても、素材であり目的であり手段であ
るところの言語の働きによって、また、詩人みずからの生と世界との連関の
社会性において、詩人は、歴史的且つ社会的であることを免れることはでき
ません。
 
 プロレタリア/モダニズムの対比によって申し上げるならば、この詩人の
時代性ないし社会性について、直接的であったものたちは前者に傾き、そう
でなかった者たちが後者をなしたものと、ごく一般的には整理できるものと
承っております。間接的ないし媒介的であることがただちに、非社会的であ
るとはいえないのであって、いわば「社会に背を向けた」自己の言語的世界
の追究という、昨今いうところの「自閉的」な姿そのものもまた、社会的必
然性に貫徹されている場合もあったと思います。
 
 詩人と社会との連関における時代性とは、このような意味においてようや
く問題にしうるものですが、ひとりのモダニストとしての詩的青春を終えて、
荒廃した戦後日本の都市を前にした鮎川信夫は、このような詩人の存在論的
問題について意識的である他に道はないものと考えられていたと想像できま
す。




 


散文(批評随筆小説等) わたしが好きな詩人 ミーハー主義的雑文 3−2 Copyright るか 2011-01-18 05:04:40
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