人間ではないアイロン
真島正人


人間ではないアイロンは
居心地が悪かった
風景の中に
うまくなじむことができず
いつも悩んでいた
口がないので
硬く言葉を閉ざして
じぶんのくるしみを
表現することが
できなかった
時折、
いいやしばしばに
湯気は立てた
だがそれは
命令に従っただけだった

老婆の指は
骨ばっていたが
しなやかで
洗練されていた
それは口よりも
饒舌に語り
女の
年老いた秘密を
時折閃光のように
垣間見せた
老婆の唇は
色あせて疼き
言葉は詩よりも
沈黙を好んだ

人間ではないアイロンは
不思議だった
人間と猫だけが
時間の
蕩けるような
密度の中で
ふけを落としていた
彼女たち
だけが
時間という密度と
空間という密度に
ふるいをかけられ
ゆっくりと
ゆっくりと
抵抗と従属を
繰り返しているように見えた

人間ではないアイロンに
軒先のカラスが
教えてくれたことがあった
遠い街の夕暮れのこと、
果実のようなそのふくらみ
大規模な工場、
事故や、死のこと、
時間が
到達する、
残酷というもうひとつの果実。
「熟すという言葉があるんだ。それは膨らみ、汁を滴らせる。けれども変容は、『良くない』らしいよ」
アイロンは、
首をかしげた
自分には変容など
存在もしなかったからだ

ひしゃげられ、
熱に焼かれ
かたちをかえることは、
変容ではなかった
それを
アイロンは、
彼独自の
知性で知っていた
鉄の持つ性質が、
水素・炭素と結びつき
電気を解さない
知性を彼に与えていた
万物の
不思議は
遠く遠く
向こう側の世界にあった
薄いベール一枚を隔てて
向こう側にいる
『人間の知性』を
眺め続けた

やがて、
小さな死がやってきて
いくつかの
交換と行き来があった
そんな当たり前の出来事の
連続が
フィルムのように
カタコトと流れ
知らなかった光が
幾度か頭上で
きらめいた
Xと書かれた文字が
黒板を潜り抜け
Yという文字に
変えられるように
アイロンは
風景の中に
馴染んでいる自分を夢想した
Xである自分が
Yである自分に
変容すること、
この、
馴染まない風景の一部として
絵画に描かれてゆくことを……

いつかのカラスではない、
別のカラスがやってきて
(アイロンは、それをいつかのカラスと勘違いしていた)
羽をつくろいながら
ささやいた
「ねぇ、アイロン君、あなたは『変わらない風景』という概念を知るべきだよ」
「君はそれを知っているのか?」
とアイロンの口のない叫びが
カラスの頭脳に
伝達をすると
「僕は逆説として知覚している」
と彼は答えた
数ヵ月後、
カラスは国道で、
羽と肉の残骸になった。

人間ではないアイロンは
人間ではないので
寂しかった
寂しかったので
じゅぅじゅぅと
湯気を上げながら
次々と布切れを
平らにしていった
けれども
人間は
衣服を汚してしまうので……

   ※

けれども人間は
衣服を
汚してしまうので、

人間の指もやがては
大きな湯気を立てて
次々と布切れを
平らにしていく時期が来る
人間の皮膚はとても弱いので
高い熱に
耐え切れずに
爛れ
とろとろに蕩け
元の状態を保てなくなる
かわいそうだったアイロンは
人間ではないので
硬いそれ自体の形質を
保持し
やがては
『変わらない風景』の中に
馴染んでいく

そして
『風化』をするのだ

   ※

風化、

変わらないそれが、
唯一抗い、
または
時間の密度と
空間の密度の中で
ふるいをかけられ
ゆっくりと
ゆっくりと
(その速度は、まちまちだけれど)
抵抗と従属を
繰り返す
ための、
その凡てとして




自由詩 人間ではないアイロン Copyright 真島正人 2011-01-16 22:28:04
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