ディスコミュニケーションに関する考察
はるな


コンテンポラリー・アート、コミュニケーション・アートみたいなことが言われて久しいですけども、そのなかで、コミュニケーションこそがアートだ、みたいな動きが、当然大きくなってくるわけです。接しあうなかでつくられていく事象を、それはまあピクチャーでも意味でも音でもなんでもいいのですが、それをアートと呼ぶという。これだけ多くのものが多様化しカテゴライズされていくなかで、コミュニケーションこそをアートだと言ってしまうことはもちろん間違いではないと思います。
しかしそう考えたときに、逆方向、つまりディスコミュニケーションをかたちにできるならば、それももちろんアートだと、わたしたちは言わねばならないと思うのです。もちろんこれは非常にむずかしいことに思います。まずアートが何かというところから出発しなければならないでしょう。しかしこれを一般的な意見としてまとめることは非常に困難ですので、わたし自身の意見として述べますと、アートとは、表現すること、またその手段、または表現することによって出来上がった結果です。
わたしはたとえば、絵をかきますが、絵をかくという行為や、描かれたものを介して自分自身や、自分の思考を表現しようとしています。ようするにコミュニケーションの手段として、わたしに「絵をかく」という行為と、描かれた絵という結果があります。
たとえば、わたしがある詩人を好きになったとしてみます。わたしはまずその詩人よりもさきに、詩人の詠んだ詩を愛します。そして詩人を好きになります。詩人にはお金がありません。わたしは詩人にお金をあげます。詩人は喜ぶかもしれない。詩人は気持ちを詠むかもしれない。あるいは喜ばないかもしれない。あるいは何も感じないかも。でも、ほとんどの場合、人と人がかかわりあうなかで、その人同士が何一つ影響し合わないことは、不可能のように見えます。わたしがそれを知るということは、つまり、わたしがそれによって影響を受けるということであり、また、それがわたしによって影響を受けるということでもあります。感情面だけのことではありません。生活や、生臭い話ではあるけれどもお金の流れかたが変わると、結果的に感情も揺さぶられます。そうしてまた、自分を表現しようとする人々に、なにかひとつかふたつのことには非常に鈍感であっても、すべてのことに鈍感な人間というものは、なかなかいないものです。

そしてディスコミュニケーションに関してですが、これは辞書をみてみると、意思の断絶、意思疎通ができないこと、伝達ができないこと、とされています。
こうして書いてみてわたしは思うわけです、わたしたちははたして、意思疎通ができたことがあったのだろうか?コミュニケーションと声高に叫んではみるが、意図が理解されたことなどあったのだろうか?アートとは、多読が許される分野ですから、齟齬や誤解も合わせてそれがコミュニケーションだとされるべきであるというところも、理解できます。それはアートのみならず、日常的に行われていることです。つまり、意思の疎通(コミュニケーション)のかたちを表すものがここにあるとすれば、それは意思の疎通ができなかった(ディスコミュニケーション)のかたちを表したものでもありうるということです。コミュニケーションアートは、ディスコミュニケーションを飲み込んだかたちでの、アートということにもなり得ます。
ではディスコミュニケーションの魚拓をとることはできるのだろうか?
それはたまたま発見されるものでなければならない。自分から働きかけるものを、コミュニケーションと呼ぶので、それは本人以外の手によって見つけられなければならないだろう。あるいは作り手が人間ではないか、死んでしまっているべきです。たとえば「これがディスコミュニケーションの系譜だ」といってあるひとが自分自身がつくったある画を持ってきたとします。それがディスコミュニケーションのきちんとした魚拓であったとしても、そこに何の手も加えていなければ、それは図鑑(あるいは記録)であってアートではないのです。
とても明快な例としてここにヘンリー・ダーガ―というひとを挙げようと思います。このひとは男性で、本人がそう感じていたかどうかはわからないですが、孤独な人生を送りました。このひとは身寄りがなかったそうで、このひとの住んでいた家の大家が部屋の整理を行ったそうですが、そのときに大量の絵と文章が出てきたのだそう。それがいま一冊にまとめられていて、「非現実の王国で」という本になっています。これを見るとわかるのですが、物語は膨大で、絵のなかにはたくさんの少女と、たくさんの色があります。少女にはみなペニスがついています。ダーガ―は、男女の性差さえ知らなかったのだとされています。これは、ディスコミュニケーションの本当のひとつのかたちかもしれません。そして、彼の死後この絵や作品が見つかったことは非常に幸運なことのように思えます。もしこれを彼が描いている最中に見つかったならば、この物語のあるひとつの純度が下がってしまうことが予想されます。それが何かをわたしはうまく言いたいのだけれど、困難です。

あるものが失われるというのは、非常に大きなことです。
コミュニケーションが失われた状態、つまりディスコミュニケーションにも、これは言い当てることができます。
そして、失われたものは、なかなか取り戻すことができません。


わたしたちは、自然の状態として、物事に働きかけるようになっているように思います。相互に関係しあうように生まれついていると思います。わざわざ、コミュニケーション・アートだと叫ぶのは、今まで当然のように行われてきたコミュニケーションに問題が生じているからにほかなりません。しかし、それでも人々は相互に関わり合っていることは変わりません。
問題なのは、それらが「断絶」するということです。
インスタレーションにしろ何にしろ、わたしが興味があるのは、「出来上がらなかった部分」です。ここでは話をアートに関することに絞ります(そうしないときりがないので)。いま人々が関わりあって完成させるアートというのがたくさんあります。これは大昔からもちろん行われていることですが、それがより表層化しているのだと思います。多くの手(影響)によって完成された絵がここにあります。これはまた、多くの人々の手(影響)が「くわえられなかった」ことによって完成された絵だということもできます。
だけども、「加えられなかった」手そのものをかたちにすることはできません。それはミロのヴィーナスとは少し違っています。
わたしはこの問題についてもう少しよく考えてみなくてはならないでしょう。わたしは「存在しない」存在について、考えているのです。それを言葉にすることは、たぶんパンドラの箱を開けるようなものか、あるいは悪魔の証明をしようとすることなのでしょう。


散文(批評随筆小説等) ディスコミュニケーションに関する考察 Copyright はるな 2011-01-03 22:45:43
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