笑ってよ
小林 柳
じゃあ、と言って立ちあがった。帰りがけに後ろで、短く息を吸う音がした。そういう癖があることを、わたしは知っている。ずっと前から。もうひとこと言おうとして、何も言えないのだ。
それに気付いて、振り返っていたこともある。この頃はそのままにして、先へ行ってしまう。それでも後で気になって、思い返す。もう会えないかもしれない、と思う。
曇り空に、かりんや蜜柑が浮かんでいる。去年から枝に生ったままだ。甘そうだった色は、褪めて薄白い。そのまま勝手に落ちるのかもしれない。
触ってみようかと、一瞬だけ思ってやめた。口元だけ笑った、誰かの顔を思い出した。
日が暮れかかると、電話を取るのが少し怖い。知るはずのなかった人が、早口で叫ぶような気がする。名前を聞かれて、どこかに呼ばれるような気がする。
その声は、別の世界から聞こえてくる。声の向こうでは、短くて鋭い話し声と、金属のぶつかる音がする。着信のランプが赤く、目の前で明滅する。
電話を切ると、暗い台所に立って、シンクのふちに手を付く。窓の外はまだ、かろうじて明るい。ボウルに張った水を覗きこむ。黒い塊が映る。
りりりりりん、と音が鳴った。