歌謡曲批評-童貞ソー・ヤング-
只野亜峰

 銀杏BOYZというバンドがありまして、なかなか僕らの世代では人気を博したバンドなのですが、このバンドのフロントマンである峯田和伸という人物はかなり面白い歌詞を書くのです。「銀杏BOYZ」よりも「GOING STEDY」のほうが馴染み深い人もいるかもしれませんね。僕が高校生だった頃というのはちょうどHI-STANDARDを中心としたメロコアブームが落ち着き初めて青春パンクというものが台頭した時代で、「175R」とか「ガガガSP」とか「ロードオブメジャー」なんてバンドが一番脚光を浴びた時代でした。GOING STEDYもそんな青春パンクブームの中で人気を博したわけですが、キャリアを積むごとにブルース色が強くなっていったのを見ると、峯田の芯は元より青春パンクよりはむしろブルース側にあったのかもしれません。
 「童貞ソー・ヤング」という曲は、そんな青春パンクとブルースの転換期に作られた曲の一つで当時の中高生の中では良くも悪くも大いに話題になりました。と言いますのも、当時あれほど性に関して明け透けなラブソングを歌う人気バンドというのはなかなかいなかったわけです。一般的にラヴソングにおいて恋愛感情というものは清らかなものとして描かれるのが普通ですし、本当の恋愛は肉体的欲求を伴わないでも成立すると云わんばかりに性的衝動というものをタヴー視して触れないのが通常だったりします。それが悪いことかと言えばそんな事はなくて、そりゃあ僕だって有線からイケイケな感じのギャル声で「女の子だってしたいの〜♪」とか流れてくるとちょっとげんなりもしてくるので良いのですが。女心が複雑なように男心もまた複雑怪奇なもので、「男の恋愛は名前をつけて保存・女の恋愛は上書き保存」なんていうふうに言われたりもするように、ある部分において男という生き物はとてもロマンチストな面を持っていたりもするわけです。めんどくさいですね。


 ――ああ、今夜も僕はあの娘を汚したくて 瞳閉じる


 そんなこんなで話題になった「童貞ソー・ヤング」は思春期の少年男子が持て余す性欲を象徴するものとして理解され、大いなるネタソングとして愛されたり愛されなかったりしたわけです。「惚れた女を抱きたい」という性的衝動というものは思春期の少年はもちろん健康な成人男性なら大抵は持ち得るものなのですが、野郎には「バラ巻きたい本能」というものがあって「とにかく穴にぶちこみたい」という性的衝動も同時に備わっていたりするのです。これは生物学的にどうしようも無いことなので、貞操観念がそれなりにある女性陣の皆様は自分に言い寄ってくる男がどちらなのかをきちんと見分けると良いんじゃないかと思います。穴があればどこにでもぶちこめる糞みたいな男もたくさんいます。特にこういうフォーラムに出入りするような感受性の強い娘さんは狙われやすいんじゃないかと思いますので気をつけましょう。
 とまぁ、男には大別して二種類の性欲があるわけですが、「あの娘が好きだからあの娘とやりたい」のか「とにかくやりたいからあの娘とやりたい」のか、特に思春期においてはこの二つの性欲が混同され易いわけです。はっきり言ってしまえば男なんて男女の感情が無くても生理的に無理じゃなければいくらでも女とやれちゃうわけですし、そんな中で「あの娘と一発やる」という行為、ひいては「あの娘と一発やりたい」という欲求そのものが恋愛の形として正しい事なのかどうかを男子はわりと真剣に自問自答したりしなかったりするわけです。かわいいもんですね。


 「中学までは良い奴だったのにこの前会ったらヤリチン野郎になってたよ一体あいつに何があったっていうんだいジェニファー」
 「簡単な事よサム。高校で彼女ができて一発やってしまったの。それだけよ」
 「oh...なんてこったい。この世には神も仏もいねえってのか」
 「そうねサム。でもベッドの上で言ってもあまり説得力が無いわよ」
 「Haahaha...そいつぁ言わない約束だぜジェニファー」


 まぁ、野郎の価値なんてものは初体験で9割決まると言っても過言では無いわけで、「感情の成熟」よりも「性の達成」が先行してまった奴というのは実際ろくでもないのが多いです。この手のタイプは「感情の成熟」をする機会を失ってしまったがために、性を手段としてではなく目的に置いてしまうので先ずロクな恋愛ができません。「感情の成熟無き性の達成」は「性の達成をするための性の達成」でしかありません。性意識の低い人のほうが性を達成する機会は増えるので性の技巧は上がりますし、女の喜ぶツボも心得てきますのでモテますが、人間的に魅力的かどうかと聞かれると首を捻らざるを得ない感じの人間になります。この手のタイプの男には同性の信頼というものが先ずありませんし、友達っぽく見える人物がいたとしても良いとこ狩猟仲間ぐらいです。女の子はこの手の男には存分に気をつけましょう。この手の男はなまじ一緒になったとしても平気でDVしたり平気で浮気したりします。もしかしたらあなたが二股目・三股目かもしれません。あなたには魅力的に見えるかもしれませんが、根っからの糞野郎なのであなたがいくら頑張ってもどうにもなりません。魅力的に見えるのはあなたの目の錯覚です。恋は盲目なのです。眼科に行きましょう。少なくともあなたが性の捌け口であり続ける限り彼は永遠に人間的成長を遂げられません。ワイルドな男と悪い男の見分けぐらいつくようにしてから出直しましょう。というか、体の相性の良いマダオを人間的に更生させるより、人間的に良い感じの男性に夜のいろはを叩き込んでやったほうが労力的に楽な気がします。不幸な恋愛体質の人はそろそろ幸せになるべきなので頑張ってください。


 ――ああ、できるならあの娘を抱いてみたい
 ――何処へも行かずそのままで寝顔を見ていたい


 結局なんでしょうかね。童貞こじらせるとそれはそれで大変な事になりますけど、簡単にぽっと捨ててしまうよりは好きな女でもできて、ちゃんと精神的に成熟した関係の上で好きな女といたすまで大事にとっておけるやつのほうがかっこいいと思うわけですよ。もちろん体の相性ってやつは男女の関係においてわりと重要な問題で、独りよがりなズッコンバッコンなんて女の子には苦痛以外のなにものでもないですし、経験の浅いうちはどうしても独りよがりな行為になってしまうのもしかたのない事ではありますがね。ですから経験が無いってのはそれだけで大きなディスアドバンテージなわけですけども、さっさと捨てて人間的に残念になるよりかはよっぽど良い気がします。宮沢賢治とかかっこいいじゃないですか。生涯童貞ですよ生涯童貞。
 「童貞ソー・ヤング」っていう曲のかっこよさも結局そういうところにあると思うのです。好きな女の子を思い浮かべてナニをナニナニする事にすら罪悪感を覚えるような、性と恋の間で悶える少年の男心。「彼女が好きだ」という感情と「彼女を抱きたい」という性的衝動と「そんな感情で彼女に触れてはならない」という罪悪感と「それでも彼女が欲しい」という恋心が良い感じに混ざり合ってて素敵じゃあないですか。青春ですね。性春が駆け抜けてますね。峯田の歌詞の良いところというか魅力的なところは、そういった素敵な部分を強烈なインパクトで塗りつぶしちゃうところなんですよね。「童貞ソー・ヤング」というタイトルもそうですし「一発やるまで死ねるか」なんていう下りもそうですけど、強烈なインパクトに誤魔化されてぱっと聞いただけでは中々曲の真髄にまで喰い付けない。この曲を一回聞いただけで真っ当なラヴソングだと認識する人間はそうはいないでしょう。だからこそ僕らの世代では大いなるネタソングとして浸透していったわけですしね。しかしながらよくよく噛み砕いていけば中身は全くもって甘酸っぱいラヴソング。チェリーボンボンみたいですね。童貞なだけに。素晴らしい二段構えです。 

 さてさて、そんなこんなで文章量も結構な感じになってしまいました。本当は「あの娘は綾波レイが好き」っていう曲を取り上げるためのジャブで「童貞ソー・ヤング」を持ち出したのですけれど、思ったより熱く語ってしまいました。相変わらず文章もヘタならプロッティングもロクにできない酔っ払いの僕ですが、ここまで読んで頂いた奇特な読者の皆様ありがとうございました。皆さんの2011年がどうか素晴らしいものでありますように最後に例のフレーズを残してお別れしたいと思います。年明けの埼玉県より私、只野亜峰がお送りしました。皆様あけおめことよろ良い年を!


 ――若者よ童貞を誇れ!
 ――童貞万歳!

 (GOING STEADY「童貞ソー・ヤング」より)


散文(批評随筆小説等) 歌謡曲批評-童貞ソー・ヤング- Copyright 只野亜峰 2011-01-02 02:25:55
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