千手観音像
なき
片方の靴を失くしたまま辿りついた木目の艶やかな三門をくぐると雨降りの翌日の美しい鈍色の砂利の上で靴を履かない私の靴下は冷たく湿り腐りかけていた親指の爪が凍りかけて腐っても凍っても痛いのだと知った私の皮膚に踊る靴の映像がちらちら映って残像残響残照が隔たりの届かない隔たりの隔たりに反映反響反照しているのを感じた皮膚が鳥肌を作って体の中からノイズを生み出している。
残像。懐かしい匂いの私は今はもうどこにも行けずに(父と母に挟まれて)どこにいるのかわからないのに眼に皮膚に静止する池に音を立てて歩くしかない鴬張りの床に虹色に輝く塵に映り半眼に埋め込まれた水晶は私の私の私のノイズを的確に浚い出し鐘の伸び続ける音の糸が板の継ぎ目を瞬間引き込んで時が止まり息を引きとめたのは私。
残響。伸びた音の糸は飴細工のように細く長くまっすぐに繰り返し伸び伸びて伸ばされて木をたたく音と共にこだまする声は私のものか母のものか父か祖父か祖母かあなたのあなたのあなたのものかそれは眠ったまま耳の隙間にうずくまってすすり泣くような「愛しい……」やさしさをやさしさでやさしさが齧りとっては吹き消していくのをコインの擦れ合う音が押しとどめようと酷く残酷な行為をするので畳に正座する親指は足先は足は内臓はますます凍り固まり固められ固まってしまえば痛みは私のものでは無くなって私ではないものの処へ帰っていったようだった。
残照。言葉で区切られることに感動を覚えた輝くあの日の痛みを伴う冬の日差しが温もりの色だけ保って静かな金色の千手観音像の鈍く光るのを忘れた忘れかけたこれから忘れる忘れもののように見つめると目蓋を伏せた人間でないものの顔は私の皮膚に人間として映りノイズを生み出しながら生き生きと揺れ私の両の目が千手観音像の顔に忘れられた静かな金色の温もりを捉える度にすりかわるすりかわりすりかわれば笑い声さえもあげられない静けさが私を満たし満たされ笑ってなどいない千手観音像の口元がかすかに微笑むのを知ることを知っていたような光を背中にえる。
空は空気は私は私の皮膚は私の喜びと怒りの在りかは隔たれたまま空を映す穏やかな川を映す目の色は変わらぬまま来週の昨日は晴れるといいのにとつぶやく私を置き去りにして私の願いに置き去りにして置き去りにした願いが私になる度に東京行きの新幹線が通り過ぎていく駅に失くしたたはずの靴が片方ちらりちらりと踊って私の皮膚は少し汗ばみ凍りになっている親指の肉と爪の隙間の液体が温まっていくのを感じている。