正月の街の幻想
番田
風はとても強すぎるよう。ローラースケートやスケートボードを押して坂を下っていた頃は、とても元気なものだったと思う。今でもそんなことをすることは可能だけれど、そんなことをしたとしても、恋愛のように夢中になれるかどうかはわからない。
正月の街はあまりに寂しすぎて、ひっそりと静まりかえった風景はまるで死んでいるかのように見えた。ネットでは少子化問題についての特集をやっていたけれど、10年後に想像されたかのような景色の感覚として感じた。街は静まりかえっていた。私はポケットに手を突っ込みながら歩いていった。誰に会うというわけでもなく、ただ食料を探しに出かけた。コンビニは開いていた。ところどころの人気のラーメン屋はシャッターを下ろしていた。人もまばら。ブックオフでタイムセールをやっていたけれど、正月に読みたくなる本などなく、CDのほうでむしろそれをやっていてもらいたかったのにと思った。この年ではマンガも本も読む気力もなくしていて、雑誌も右に同じだった。誰も彼もがそういったタイムセールに心を奪われ、パチンコ屋の人々のように彼らの姿を思わされた。私は多分ネットで買った方が楽で、確かな物が手にはいるような気がさせられた。誰もがそういった時間の制約の中では歯止めがきかなくなってしまうものである。限られた時間の中で書物を探すための疲労も増すであろうし、それによって奪われてしまう貴重な正月の時間も存在するという事も忘れさせられている。私は探していたものは見つからなかったので、ため息をついて、店外に出て寒い風の吹く中をダイエーを目指して歩いていった。私はこうして詩や文といった物を書いたりしてはいるけれど、正直本に特別興味を持っているというわけでもなかった。持っている本もごくわずかといったものだった。詩を書いていますとは言っても、あまり作家についての話しは人にできないといった矛盾した人間でもあった。しかしそういった矛盾というのは少なからず人の中には存在するような気もしている。例えばサッカー選手がボクシングの観戦が好きであったり、ロックンローラーがアイドルのことが好きであったりもするように。いいわけかもしれないけれど、自分とは少しだけ違ったものを人は求めてしまうのではないだろうか。人間が宇宙人や鯨やイルカなどに憧れを常に持つように、それは個人としてはどうしようもないことなのだ。そうではないのなら私は少しばかり変わった人間なのかもしれないとなんとなく思わされてしまう。みんな同じで有ればいいのにと静かな願い事のようなことをそこで浮かべさせられている。
詩の中で技術的な進歩を感じられないままいつのまにか一年が過ぎてしまった。私の中で暗い葛藤となってそれは渦巻いている。日常は、詩とは切り離された世界である。詩にしても音楽にしても何にしたってそれはそうなのだろう。多くの人にとって社会とは搾取される側の立場の存在だ。利便性は生み出すものもあれば殺す物でもあるということは旧社会主義の考え方によって証明されている。詩にとってこれからの世界に対してできることは少ないのかもしれない。詩などたかが4行で完結してしまうチリのような代物である。しかし昔にしても今にしてもそれは変わらない感覚なのかもしれない。小さな紙片に書かれた言葉が訴えるものは強力なドラッグのような宇宙的な空間性を感じさせるものである。そういったものが表していくものは壮大な物だと思わされる。今日は特売の寿司を食べてみた。昔ガリが一番好きだと言っていた友人がいたけれど、それを食っているとなんとなく彼の気持ちが理解できるような気がしてきた。プリンターにインクを補充するときは詰め替えインクを使っている。純正品を使うのは故障すると思わされていたとしても、難しく思える昨今の経済状況だ。街で楽しいと思える物はごくわずか。子供たちはどんなことが今の街では楽しいのだろうか。昔はファミコンのソフトが社会現象にまでなっていたけれど、いまではスクエアエニックス自体が経営が困難な状況に陥っている。ネットによって色々な情報が見えづらくなってきている。見える物はパソコン本体でしかなく、誰がどこでなにをやっているかなどもうすでに知り得ない状況である。仲間同士で集まっていても人の知りたがる話題なんてものはあまりないし、何をどのように話せばいいのかすら頭の中にはすぐにはわいてこないものだ。そんなわけで今日も、君と話す話題をコーヒーショップのテーブルの向かいで考えあぐねていた。
若い人間と話すときなどにジェネレーションギャップを感じることが多くなってきた私だが、それに耐え抜くということが実は大人としての誠実なスタンスなのかもしれないと感じさせられている。スノーボードやサーフィンに出かけてみたっていい。そういった姿勢が多少なりとも社内でのプラスの要素につながってくるのかもしれない。しかし電車でボードをかついでスノボになんて行きたくはないけれども。
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新しいCDをトレイにのせるのは面倒だ。どんな曲がかかるのかまったく1秒先の想像がつかない。それは新しい土地を訪れることに似て心を躊躇させられる。古くから聴き慣れている曲をぼんやり聴いていた方が楽しいものだ。そういった思想はやはり私が昔よりも歳を取ったから感じるのかもしれない。と同時に色々なメディアなどに飽きさせられた心が部屋の中に渦巻いている。些細なことに価値を感じさせられていたころが、何となく懐かしい。しかしそんな頃自体はあったのだろうか。物心ついたころから私のまわりには人や物が溢れていたものだ。同世代の人もそんな感覚で生きてきたのだ。私はアメリカに行ったことがあるけれど、生まれ育った場所によって人の感覚は違った風に変わるものである。言語の生成の仕方も変化するのかもしれない。アンディウォーホルのような人間が60年代のアメリカではない場所から生まれることは決してないであろうことが予想されるように、私が生まれ育った場所は日本で、回りには人や物が溢れていた。しかし70年代あたりを境にコレといった住空間の変化は見られなくなったといっても良いのかもしれない。国と国の特色といったものも境をだんだんとなくしてきている。日本と韓国の住空間の違いもごくわずかな物だろう。そのごくわずかなものが大きいのかもしれないが世界がネットなどを介して扁平な文化を共有しはじめて、多様性自体をなくしはじめているような気がするのだ。オリコンやビルボードのヒットが少なくなってきたのも単に圧縮音楽の台頭という事実には結びつけられないのだ。私は紅白歌合戦はテレビでは見ずに携帯電話で見ていた。携帯の方が移動できるし、映りが良いからである。NHKはアナログ放送の電波に手を抜いているように思われた。私はコンバーターを買わなければならなくなるのかもしれない。PSXにはアナログ放送用のGコードしか搭載されていないから予約時間は手動で設定しなければならなくなる。それはとても私を落胆させる。そこをうまく回避していける何かを秋葉原の小さな路地の怪しい店の中に求めてしまう。
何かしらのものがポケットの中に入っていた。それは多分不自然ではないものなのかもしれない。誰かに自分の詩を読んでもらいたいと思ったことはなかった。しかし誰に宛てて書いたものでもないのにそれはポケットの奥にそっと潜ませられている。
私はスノーボードに出かけるべきなのかもしれない。糞重いボードを担いでJR山手線を回っていれば、見えない物も見えてくるかもしれない。それは私自身が見失ってきたきたあの頃の光のようなものなのかもしれない。結構年上の人もそういう旅行に行っているということを聞いた。物置につっこんである、あの大きなボードを取り出してみようかと思った。CDは何にすべきかはわからなけれど、きっとそれはとても疲れることだろう。でもそこまでは何とか行ってみようかと考えている。