一の蝶による五の夢景
リンネ
i. eating machines / Parantica sita
その日の朝食は、いつものように厚めのトーストが一枚でした。私は表面にのせたバターが溶けていくのを嬉しそうに見ていますが、何かが溶けきらず、パンの上に残ってしまいました。それは生まれたばかりの赤ん坊のように粘液でまみれています。目を疑うようなことですが、どうやら、アサギマダラという蝶の幼虫のようなのです。生きているのでしょうか? ためしに指でつつくと、幼虫は判別しがたい色をした体液を流して、みるみるうちにしぼんでしまい、後には脱ぎ捨てられた服のように、まだら模様をした派手派手しい体皮が残りました。本来キジョランの葉に住むアサギマダラが、なぜこんなところにいたのか、当然それを疑問に思わなければいけないのですが、私はなぜかそのとき、アサギマダラが有毒であるということに頭がいっぱいで、とにかく、そのトーストを食べてはいけないのだ、食べてはいけないのだ、と自分に言い聞かせるのがやっとでした。というのも、私はすでにトーストを手に取り、よだれを口いっぱいに溜めて、のどを鳴らしていたからです。
ii. metamorphosis / Papilio xuthus
二人で赤ん坊のお守りをしていました。赤ん坊が泣きだしたので抱き上げると、おむつに柔らかい便がたまっています。もう一人のお守りはその便に怯え、頭を抱えて震えてしまっています。私は、そうっとおむつを剥がして便を処理しました。洗面器には湯がたまっています。藤編みのバスケットをもう一人から手渡されました。中のシーツの上に、さっきとは別の赤ん坊がうつ伏せになっています。不安になり、仰向けにすると、顔がトカゲのようにしわがれていました。急いでお湯に浸けて揺さぶります。けれどそのせいで、首もとがゴムのように裂けていきます。大きく開いた切れ目からは、一匹のアゲハチョウが羽を広げて這い出てきました。二人は「救急車を!!」と絶叫しましたが、もはや赤ん坊は洗面器にぷかぷかと浮かぶ、単なるさなぎの殻に過ぎないということが、心のどこかで、にわかに予感として芽生えていました。
iii. reproduction / **** ****
さて、深い森の中に、スーツを着た男がいました。おかしなことに、その男の背中には大きな蝶の羽が生えているのですが、私はそのことよりも、なぜこんな場所に彼がいるのかが気になりました。自殺願望者かと思ったのです。「気づいたら生まれてた、おまえもそうだろ?」と彼がそういうと、私はいつの間にか何匹もの蝶になって、男とこもごもに交尾をはじめていました。終始淡白であった情事を終えると、男はすぐにどこかへ飛んでいってしまいました。私たちはさっそく、産卵に最適な植物を探していますが、自分たちがどんな種類の蝶か知らないのに、それが分かるはずありません。けれども、もはや私たちにはそれ以外の目的がまるでなかったので、何も心配せずに森じゅうを飛び回っているのでした。
iv. suspended animation / Byasa alcinous
赤ん坊がベッドに寝転んでいると、小さなおでこに、手のひらほど大きなジャコウアゲハが留まりました。私は、突然のほほえましい光景にうっとりとして、それをカメラのファインダー越しに眺めています。赤ん坊の白い肌とジャコウアゲハの真っ赤な斑紋のコントラスト、これが素晴らしく美しいのです。しばらくすると、蝶の口吻が、縫い針ほどの繊細さを思わせながら、赤ん坊の口元へせわしなく、あたかも蜜を探るように伸びていきました。私は夢中でシャッターを切りつづけています。しだいに赤ん坊はますます白く、蝶のほうは赤々と鮮血のような色を増していきました。しまいには、赤ん坊のほうは真っ青になってあとに残され、一方のジャコウアゲハは毒々しいまでに赤らんで生気を増し、その魅力をおびただしく放ちながら、私のいるほうへゆらゆらと飛んできました。私が、何気なくそれを避けてしまうと、蝶はそのまましばらくまっすぐに飛んでいき、突然大きな円を描いたと思えば、音も立てずに破裂してしまいました。私は残念に思いましたが、その瞬間がうまく撮れていたか、カメラのモニターで熱心に確認しています。
v. eating machines / Graphium doson (Papilio mikado)
体中に汗が吹いています。夏、でしょうか。この家のベランダから、公園が見えるのですが、そこにだれかがいて、その人は全身に蝶をまとって歩いているようでした。どうやら蝶の種類はミカドアゲハのようなのですが、あまりたくさん留まっているので、人の顔の方は少しも見えず、男か女かも分かりません。もしかしたら人ですらないのかもしれません。昔沖縄の林道で、数え切れないほどのミカドアゲハが、川辺の地面を一斉に吸っているのを見たことがありましたが、もしかしたら、あれに集っているミカドアゲハも同じ目的なのかもしれません。目的といえば、蝶は単に水分を求めているのではなく、そこに含まれた塩分などを得るために、ミネラルの豊富な川辺の地面に集まるのです。そう考えると、人間の汗には多くの栄養分が含まれているはずですから、この状況もあながち特殊なことではないといえましょう。おそらく、たくさんの蝶がまとわりつくことで、人間の体温もおのずと上昇し、より豊富な量の汗が出るのですから、これは実に効率のいい作戦であるともいえます。