厄年のクリスマス
はだいろ

去年のクリスマス、
何をしていたかとゆうと、
まったく思い出せない。
そんなことをいえば、
どんなにさかのぼっても、
思い出せるクリスマスなんて、どこにもない。
せいぜい、
小学校のころ、
スペースディフェンダーという電子ゲームを買ってもらったり、
タイレル64のラジコンカーを買ってもらったり、
その、クリスマスまで開けちゃだめよ、と言われた、
押し入れの隠し場所のなかの、
デパートの包装紙の花柄を覚えているくらいのものだ。

村上春樹が、
クリスマスでもない、春や夏に、
叩き売りされている、クリスマスレコードをこつこつ買って、
いざクリスマスになったら、まとめてそれを聞く、
というようなことを書いていたと思うけれど、
ぼくも、それ、やってみようと思い、
今は、
聞くクリスマスレコードだけは、いっぱいある。
オーティス・レディングを聞いている。
だけど、
ほんとうの冬は、もっと先で、
ほんとうのクリスマスは、もっともっと先のような、
気がする。
そうゆう、気が、みんな、しないだろうか。
毎年、毎年、クリスマスが遠くなる。
温暖化のせいかしら。
まだ、寒さや、しんとした透明さが、足りないような。

もし、
今年、
女の人と、クリスマスを、
過ごそうと思えば、
たぶん、
過ごすことができた。
(いや、風俗の女じゃないよ)
だけど、
ぼくは、
なんか、違うような気がして、
ごまかした。

でも、どうなんだろう。
ぼくに、
ぴったり合うような、しかも、
ぼくが一目惚れするような、
人を探していたら、
もう41年もたってしまったのだし、
むしろ、
ぼくを好いてくれる人を、
ちょっと違うな、と思っても、
そうゆう生き物だって思えば、
大きめの猫だとか思えば、
多少は、
というか、たいていのことは、
ああ、そうゆう生き物だ、
と寛大に愛せるのではないだろうか。


ことしは、ひどい年だった。
大厄とは、よく言ったものだ。
だけど、
厄年のいいところは、
どんなにひどくても、
厄年だもんね、と開き直れるところである。


世界中、
いまもむかしも未来も、
すべての命も、
静物も、
花や木や星やユーレイも。
宗教なんてどうでもいいよ、
楽しいクリスマスでありますよう!








自由詩 厄年のクリスマス Copyright はだいろ 2010-12-24 20:06:16
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