変態のうた 只野亜峰氏
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繁華街の光は眩しかった。心に浮かぶ光景が、まるで事実であるように思える。道行く女性の露になった素肌。「僕」はその肌に触れようとする。街の光は交錯し、街の輪郭をぼやかせ、幻想と真実を曖昧にさせた。「僕」は女性たちの露になった素肌に触れようとする衝動を抑えていた。ポケットの中に手を入れる。小銭を手で弄ぶ。「僕」は想像する。女性を弄ぶ姿を。服を切り裂き、女性の中へ入ろうとする様を。小銭の硬質な触感。現実に戻る。ヒールが、革靴がアスファルトにぶつかっている。無数の靴の音。
謝罪を繰り返す「ぼく」が真に抱いているのは憎悪だ。「ぼく」は「ぼく」を咎めない。「ぼく」が変態であることを認めても、「ぼく」が悪いことは認めようとしない。「ぼく」の諸悪の根源は、「DNA」であり、「うまれて」こさせた外的要因を差す。「ぼく」の謝罪は、謝罪するほどに「ぼく」以外のものを罪に陥れようとする。
繁華街の光、衝動を駆り立てる幻想。露出した肌。男にもたれかかる女。さりげなく腰に手を伸ばす男の視線。「僕」は大きく息を吐き出す。息は無色透明だった。街の光が、夜をさえぎっている。光が光と交じり合う。車の音、飛び交う会話の声。反響する足音。女の肌が欲しかった。触れると、軽やかに弾む、若々しい肌に触れたかった。「僕」はゆっくりと触れるのだ。女の体を少しずつ侵食していくように。
目の前の店から一人の女性が出てくる。女は駅へ向かう。急いでいるようには思えなかった。「僕」は近づく。彼女のすぐ後ろを歩いた。道行く人は誰も彼のことを怪しいとは思わないだろう。尾けられた女もそうだ。「僕」は歩調を速めた。女の横へ出る。女が振り向くことはない。
「ぼく」が変態であることを認めているのは、決して「ぼく」という一人の人間の下す決定ではない。「ぼく」が見ているのは社会規範であり、それを強要する権力だ。そうすべき、と下された判決に対して、「ぼく」は、そうできない、でいる。それゆえ、「ぼく」は謝る。が、むしろ「ぼく」は努力している、と伝えようとしているほうが強い。誰に伝えようとしているのだろう。
「ぼく」が見るものであり、「ぼく」を見るものだ。
「変態」を決定するのも同じもの達だ。
「僕」は女の肩に手を触れようとする。女は振り向かなかった。「私に触れないで」と女は言った。「僕」は立ち止まった。後ろから歩いてくる人にぶつかった。怪訝そうな顔で「僕」を見る。直ぐに視線をそらして歩き始めた。
「僕」はポケットに手を入れる。渇きを感じる。何を欲しているのか。だが、女の声がする。「私に触れないで」と拒絶する声。もはやどんな声であったかも忘れてしまった声を「僕」は再び探そうとする。群衆の中、その声は見当たらない。
「ぼく」は規範から外れている、と信じている。社会的意味などはない、と信じている。無価値であること。だが、「ぼく」が持ちうる意味は決して消されようとするものではない。「ぼく」は恨むべき両親を知り、社会も知っている。
「ぼく」は部屋に閉じこもる。閉められたドアの向こうには、テレビの音がしている。「ぼく」は装うことを知っている。ドアを開けば、「ぼく」を跳ね除ける社会がある。「ぼく」を産んだ両親がいる。「大嫌い」な「石原慎太郎」がいる。それでも、「ぼく」はその扉を開けるだろう。「ぼく」は欲している。だがそれは欲してはいけないものだ。「ぼく」にはまだそれがわからない。そして、ドアの向こうの脅威を敵対することしかできない。
愛とは愛し愛されたことをその瞬間から忘れ去ることを意味している。
愛したものが去っていくことを愛するのだ。