失くし物
山中 烏流





お前が私の頭に触れることは
玄関で靴下まで脱ぎ、放ったあとの
一つの儀式だった

おい、納豆の匂いがするぞ
八歳の妹は部屋から顔を覗かせる
お前はその頭も追うのだけれど
そいつはまだ、その匂いに慣れていないから
諦めるといい



ベランダに近い座卓がお前の特等席
そして、その胡坐の上は私の特等席だ

コンビニでは一番高かったウイスキーが
家に一つしかない透明なコップに注がれていく
お前は美味そうにそれを飲む
毎日、毎晩と飽きもせず

それから
麻雀のテレビゲームを起動させるのだ
全く器用な人ね、と
母が笑っている



母のセンスで選ばれた、カセットテープの中身を
お前はいつも
知らぬ間に覚えていたな

私が「神田川」や「恋のバカンス」を歌うと
決まってお前は驚いたが
お前の口から「あなたのキスを数えましょう」、が流れたときは
私だって驚いた
後で聞いたことだが、母も妹も驚いたそうだ



おい、お前よ
何か言い忘れてやしないか
私の知りえぬ感触を知るその手が
あの日、何をしていても
お前は私に言うべきことがあった筈だ

お前が、私に教えたことだ


おい、お前よ
「行ってきます」を何処に消したのだ
部屋の前で何を呟かれても
お前の低い声では聞き取れないだろう

あの日
「行ってらっしゃい」を言えなかった私だから
今も
お前に「お帰りなさい」を言えないのだろうか



今日の夕飯は、お前の好きなきりたんぽ鍋だそうだ
私たちも好きなものだから
早く帰らなければ
無くなってしまうかもしれないぞ

明日の朝食は、これまたお前の好きなぜんまいの煮物だ
今回仕込むのは私だから
どうしようもない味になるかもしれないが
お前よ、早く帰れ


無くなってしまうではないか








自由詩 失くし物 Copyright 山中 烏流 2010-12-13 15:51:22
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