スニーカーショップでへそを曲げる
番田
アディダスのあの三本ラインは流行のファッションにのせようとすると、いかんせんクセが強すぎて扱いづらいデザインであることに変わりはないのだと理解させられる。
色々なメディアに支配されている世の中で、私たちはそのひとつひとつをいちいち理解することすらなく使用していたりする。今何をすべきかについて考えるのは当然のことではある。現在コンピューターのOSではウィンドウズやマッキントッシュがシェア争いに本当にやっきになっている。だからこそ、非常にまずい行動なのではないかという懸念がここでは指摘される。
ウィンドウズにするべきか、マックなのかを仕事や用途に加えて、状況などに応じ臨機応変に選択していくことが現在では非常に大切になってきている。私たちはそれを適当に考えすぎているのである。それぞれのオペレーションシステムに応じた適正や特徴を吟味することすら無くそれを選ぶことは簡単にするべきではないのかもしれない。行動を変化させていく行為は素晴らしいことではある。企業では米国に関する情報をいち早く取り入れているのも我が国である。
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昨今ではなかなかナイキのひな形であるコルテッツという古いタイプのスニーカーに似たデザインのものはあまり見かけなくなってきてしまった。日本人はもう少し考えた方がいいのではないかという状況にこれは似ている。景気もドルによってかなり大きく変動させられてしまっている。たとえばあなたがスニーカーを買おうとしたところで、ナイキにするべきか他にするべきか迷うものだろう。それらに比べるとアディダスは従来の伝統を無視することなくアディダスにするべきであると訴えている。ナイキのスニーカーはあのスウォッシュがすべての商品においての特徴であるが、アディダスはギザギザのステッチの入った三本のラインを現在に至っても揺るがすことなく横顔で保持している。
街を歩けば様々なファッションスタイルをしている女の子の姿をよく見かけるものである。最近見かける女子高生の姿は、以前に比べてパッとしなくなってしまった。日本においてそういったブームの波はかなりめまぐるしいように感じられる。激しくないのは政治や文化への関心の方であって、全体の流れに心を奪わがちになってしまう傾向の方が顕著に見られる。
損なわれるものの方が多いような気がしてならない。紅白歌合戦でも司会者などを全員交換してしまうのも新しいのだとするイメージを損なうだけである。
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日本以外の国は外国なのであるーー。そういった同化することへの抵抗が国としての存在を主張しようとしているのだが、建造物で言うところの京都などの仏閣を指しているのかもしれない。ああいった建物が身の回りに多く建ってくればその形状や特徴をふまえた上で、今年のバーゲンセール時期を控えている年末だからこそ、もう少し精神的な意味における個性を外国に対して自ら主張していけるのではないかと私は考えているのである。身の回りに存在する様々なデザインに気を配ってみても、参考になるのである。