明治製菓のアポロチョコレート
板谷みきょう
声帯の下から胃の入り口まで癌が拡がっていると
入院して一週間目の兄が一本目の点滴を受けながら
病室で静かに語る
声帯が大丈夫だったことに安堵した様子で
芸大の声楽科に入って声楽家として
一応、活躍する予定だったのに
親父の都合で長男だからと家業なんて無いのに
実家を継がされ片田舎で暮らしていた
楽譜も読めないフォークシンガーとして
弾き語りで歌っているボクよりも
ずっと、音楽に精通しているのに
お袋は
自分の寿命よりも早く逝くことに
衝撃を隠そうとしている
今後、五年間の生存率は30パーセントだと
医者に言われたけれども
生きるか死ぬかしか無い現状では
100か0しかないのに
30パーセントっておかしいだろう?
そんな風に聞いてくることに
何と返事を返せは良いのか戸惑っていることが
顔に出ている自分が情けない
明日の天気予報を気にすることに
似ているよなぁ。
そんな確率に縋る気は今の所無いんだ。
手術で死んでしまうリスクを考えたら
放射線治療を受けることを選んだとも言う
12月6日から放射線治療が始まるんだ。
点滴は中心静脈栄養に変わるんだ
一週間で体重が4kg減ってしまったから
仕方ないんだけどもさ
食べたくとも胃の入り口で留まって
入らないから
少し口に入れてから苦しくなったら
水を飲んで吐き出しているんだ。
不思議とお腹は空かないのは
点滴のせいかも知れないなぁ・・・
みきょー。お前、太ったんでないか?
久し振りに会ったことで
兄がそんなことまで口にする。
何にも働かない時でも
お腹が空いてしまうんだよ。
そう答えると
お腹には入らないんだけれども
口が欲しがるから
チョコレートを実は床頭台に
こっそり入れているんだけど分けてやろうか?
そう言って美食家でもあった兄が
引き出しから出したのは
子供の時に食べていた
明治製菓のアポロチョコレートだった
ありがとうって言って受け取ったけれども
こんなチョコレートを
後生大事に隠し持っていることが
健気に話す兄の本当の想いの象徴のようで
ボクの何も出来ない無力を象徴していた