This Love Is Not Wrong
捨て彦


海の上をゆっくり進む船を見ていると、ボカっと頭を蹴られた。なんで?って聞くと顔がムカつくからと言われた。
陽子さんが来いって言ったんじゃないか、と言うと(実は言ってからとても後悔したのだけど)、陽子さんは自分の鞄から筆箱を取り出して、僕の腕にえんぴつを思いっきり突き刺した。ものすごく痛くて泣きそうになった。声も出せずにもだえていると、キモいんだよ、と言って後頭部をまた蹴られた。でも僕は知っている。あの鋭い何本ものえんぴつは、僕を刺すためのものだと。そして、それらはえんぴつ削りを使うことなくすべて陽子さんが丁寧にナイフで削っているということを僕は知っている。
「ナイフある?」
と蹴られた後頭部を撫でながら聞くと、陽子さんはサンクスの袋に入った卵サンドをかじりながら「あるよ」と一言だけ言って僕の顔の前にナイフを突きつけてきた。ナイフはいつも手入れしてあるのか、サビたところが一つもなく夕日を反射して鋭利に光っている。
そのナイフ、いつも持ってるけど、それって買ったの?と聞くと、家にあったという。それ以上のエピソードには膨らみがないので聞くのはやめた。もう一度えんぴつで刺された腕を見てみると、芯が皮膚の奥で黒くにじんでいた。
僕は陽子さんの顔を盗み見た。まともに見るとまた陽子さんが怒るからだ。でも、見ていないときでも、怒られることは多い。
「手が汚れた」
と言って、僕の目の前で手のひらをプラプラさせる。僕はすぐにポケットティッシュを出そうとした。だけど陽子さんはそれには知らんふりをして、僕の通学鞄の中から新品の物理のテキストを取り出した。
「あ、それはこの前買ったばっかりなんだけど」
この新品の教科書は、最近注文していたのが届いたばかりのものだ。なぜこの教科書だけ注文していたのかというと、もちろんそれは、以前に陽子さんに焼き捨てられてしまったからだ。先生から理由を聞かれたときは無くしてしまったと言った。そしてちょっと前に届いたばかりなのだ。まだ3回しか使ってない。
「それこの前注文したばっかりだから、また焼かれたら困る」
「焼くわけないじゃん」
「でも、汚されたら困る」
「ちょっとだけ手拭かせてね」
そう言うと陽子さんは適当にページを開いて、その中から1ページ破って、サンドウィッチで汚れた手を拭いた。
「あぁ…。ティッシュあるのに…」
「この紙で拭きたかったの。」
こういうとき、陽子さんはいつも無表情だ。いつも何気ない。彼女は僕を苛めるつもりなんか毛頭ない。生きていくうえで、至って自然な行動で、僕へなめらかな危害を与える。
まるで蟻を知らない間に踏み潰している人間のように。蚊を叩いて潰すように。そこには悪意なんて少しも存在しない。
「勉強できなくなるじゃないか」
「他のページがあるでしょ?何いってんの」
「それ返せよ」
陽子さんはぐしゃぐしゃになったページを小さくボールにして、手のひらで遊んでいる。
「これ投げたらどこまで届く?」
堤防に座っている僕らの目の前は海だ。波の音がすぐ足下から聞こえる。陽子さんは堤防の上に立ち上がって、大きく振りかぶった。
「どこまで届く」
と言いながら投げたボールは、大きく弧を描いたけど、やっぱり紙だから飛距離は伸びなかった。そのままヘロヘロと減速して、1メートル先に力なく落ちた。
面白いね、と言って、陽子さんは僕の鞄を蹴った。鞄を海に落としそうになるのを必死で捕まえた。
「………この前さ、」
鞄を胸に抱きながら、僕は陽子さんに質問した。
「待ち合わせしたじゃん。図書館の前で。夜中。」
「そうだっけ」
「夜中の二時。君に起こされて行ったのに」
「うん」
「なんで来てくれなかったの。僕電話したよね」
「うん」
「もうすぐ行くって行ったよね。何回も。電話するたびに」
「うん。ふふふ」
「なんで。」
「だって」
「……」
「面白かったんだもん」
「何が?」
「何がって、あんたがずっと待ってるところが」
「だって、来るって言うから、待ってたのに」
「アハハ、そういうの、ホントうける」
そういって、陽子さんは唐突に僕の鞄を奪い取って、海に投げ捨てた。ほとんど重量を感じさせないように鞄は落ちていった。
「ああ!何するんだよ!!」
落ちた拍子に鞄の口が開いて、中の教科書やプリントが海面に散乱した。
「アハハ。ばーか、ばーか!」
「どうするんだよ…。僕明日から勉強できないじゃないか…」
「アハハ。ほんとあんたって馬鹿なんだね。なんで怒らないの?」
「怒ってるじゃん!」
「なんであたしのこと殴ってどっか行かないの?やっぱ馬鹿なんじゃん。それか、あんたってマゾ?」
陽子さんにはセフレが三人いる。うちの学校の上級生が一人に、卒業生が一人。もう一人は伯父さんだ。そして、それとは別に大学生の彼氏がいる。大学生の彼氏は陽子さんにとても優しいという。そして、陽子さんにセフレがいることも知っている。陽子さんはその彼氏のことがとても好きだ。
「陽子さんは、僕のこといじめて楽しいのかな」
「いじめる?わたしがあんたを?何で?」
初めて陽子さんとあったのは、高校の入学式のときだ。彼女はそのときのことを一切覚えていない。
陽子さんとこうやって放課後に会うようになったのは、2年になって同じクラスになってからだ。彼女はどういう理由か分からないけど、気が向くと、いつもメールで僕を海に呼びつける。一緒に下校するということは絶対ない。友達に僕と歩いてる所を見られるのがイヤだからという理由らしい。そういうことが分かってるから、僕は、陽子さんに気負うことなく会いにいける。無関心でいて貰えるから、気がまぎれる。優しくも痛くもない、穏やかな風景だと思える。



散文(批評随筆小説等) This Love Is Not Wrong Copyright 捨て彦 2010-11-26 01:33:57
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