蝶の刺青
豊島ケイトウ
目覚めると真っ先に君の二の腕を求めた内側から蝶の刺青を浮かび上がらせるそれを僕はどうして失ってしまったのかほとんど無自覚のまま
本当に美しい言葉は永遠でも真実でも物語でもなくあなたの唇が開いたときに見える、私の鼓膜に届く前に知れる、勇気のようなものかもしれないそんなふうに君は結論づけた
確かにそのとおりだった僕は勇気を失いそれからすべてがゆるやかな瓦解のかたちを描きはじめたのだまるで筆を握ることさえできず安ホテルに逗留しつづける画家のように
(ある瞬間目覚めたものがある瞬間目をつむる堂々めぐりから僕が学び得たたった一つのアイデンティティーを旅行鞄に詰めたのはまぎれもない事実だ)
君はたくさんのことにたいして怯えたくさんのことにたいして建設的だったけれども水道の蛇口はしめようよちゃんとトイレのドアをノックしようよいきなり耳をふさぐのは公平ではなかった少なくとも僕の視界で刺青を発光させておくべきだったんだ、常に
篩にかけるような目が一義的な崩壊を表していたのだと今さらながら思うただこれだけは言わせてほしい恋愛に付着する君の空間で震えていた子機から聴かされるメロディーは恋愛などではなく勿論もっと病的な愛などでもなくたんなる気休めに過ぎなかった
君は僕がいることで安心しきっていたし僕も君がいることで安心しきっていたそれは見方を変えれば日の暮れたころにうっすらと窺い知れるお月さまのようでもあった若い僕はそんなふうには思えなかったから反論した今では後悔しているその一方で自明の理だったのだと諦めてもいる純粋な泣ける話にはならないだって君がアルバムをすべて焼き払いレントゲン写真のみ残して旅立ったのはつまり蝶を残したくなかったからだろう?
(レントゲン写真に君の刺青は見当たらなかったいくら目を凝らしてもあるところにないのだ)
僕は君の刺青を気が遠くなるまでさすっていたかったそれだけで一年はめぐり確実に生を生きられると思っていた他に何もいらないと言ったのはあながち嘘でもなかったんだ
つき合いはじめて二、三ヵ月目くらいの交換日記を読み返すとよくわかる蝶はそこに多くの鱗粉を落としてくれているあるいは君の無自覚がそうさせたのかもしれない
孤独の水位を見極めてから寄り添う二人はどこにでもいるけれど足首のあたりに優しさを見つけてほとんど衝動的に耳たぶを噛み合う二人はきっと僕たちだけだったそんなふうに考えることは慰めなのだろうかでも慰めを恥じるなんてばかばかしいじゃないかどうせなら盛大に自慰を行ってもいい
やがて君との回想も収斂していく今にもあふれ返りそうな花束の奥へ
僕たちははっきりとした円環をなしていなかった円環なんていらないと思ってあらゆる正常なものを暴力的に捨て去った――最終ページにデフォルメされた僕たちが笑っている交換日記さえいつの間にか消えてしまっていたそれに気づいた夜、僕たちは泣いた
(どちらかがだいじょうぶだと囁きどちらかが耳たぶを噛んでいたもう戻れないところに来てしまったのだと繰り返しながら)
プラスチックでできた鶏舎を持ち帰ったのは君だったそこで代わりばんこに見張ったんだ僕は君を君は僕を逃がさないように逃げないように
結局、問うことも答えることもあくびのようにしか感じられなくなったころ部屋は未然の言葉たちがひしめくだけとなった
試しに一つ未然を掴んでみると、
「縁側で日向ぼっこをしている老夫婦みたいになりたいね」
という言葉が浮かび上がった(どちらの唇が開いたときに見えたものか判然としないけれど)
小さな勇気は最初から何もなかったかのようなパチンコ玉になって落下したフローリングの床が無音で受けとめカーテンのドレープが僕の生殖器のようにも君の生殖器のようにもかたちを変えながら揺れつづけた妥協をなくして、ひたすら――