手をめぐる文学的断章
葉leaf
手は内側を流れる音楽を運動に変換して紙の上に文字としてしたためる。紙に落ちる手の影は皮膚の内側の湿潤で深く染め上げられている。私は友に手紙を書いているのだ。友は声として仕草として視線として輪郭として色彩として柔らかく統一され私の中で拍動している。私と友との間を交通する感情の列は手の中の音楽の流路をひらく。私の骨は友を呼び続けるがその呼び声は空間の溝にはまり込み無意味な温度と化す。手は腕からの独立のために戦争の準備をしているわけでもない。手はむしろ同盟とは呼べないほど自然な共闘関係を腕と結んでいるのだ。私は手紙を書き終えることができるだろうか。手は内なる音楽と戦うのをやめそうにない。
群集が拍手すると私の両手はその音に操られて手のひらをぶつけ合おうとする。私の手は突如出現した矢印の方向へとざわめき立つ。だが儀礼的な拍手などごめんだ。市長の挨拶は面白くなかった。拍手の強度は賞賛の強度と厳密に一致しなければならない。だが手を叩くという半ば自傷的な行為はあらゆる中間的なものを整列させ去勢する。手を叩く音は私とすべての頂点との間に打ち込まれて色とりどりのほどける糸を発育させる。そのことに思い至って私は仕方なく拍手した。拍手する手を彩るのは光ではない。運動である。拍手する手を動かすのは筋肉ではない。気体の落下である。拍手する手を冷やすのは風ではない。過去の突端である。
私がいくら活発に手を動かしたところで手の眠りを妨げることはできない。指紋は畳まれながら眠りの上に堆積する。闇を透過する指の肉は眠りをわずかに着色する。手のひらの骨は眠りの境界という発明を示す。眠りは生命のような液体であり夜になると血管を通って私の脳へと移動する。それゆえ私の脳が眠っているときにのみ手は覚醒するのである。手が覚醒しているとき手は植物の放散する観念を収集するのに専心してろくに動けない。手はかつて植物だったので植物の精神の図式化に余念がないのだ。覚醒した手が自ら動くとき手を縁取っているのはもはや空間ではなく時間である。様々な持続の融解と混合により点描された時間の袋である。
友の手を認めてから友の手を握るまでの間に手の中ではいくつもの船が風を蓄える。握手の前に手を新調するつもりで私は手の皮を視線でむいてみる。友の手は一匹の動物のように私の手を握り速度なく疾走する。私の手は握り返すがやはり植物なので葉を散らすように光を散らしてしまう。私は植物と動物の無言に「久しぶり」の言葉を流し込む。互いに手を離し会話が始まると植物と動物は人間の体の一部に戻ってしまう。握手したあとの手を通行する文字たちはもはや原形をとどめていない。私がラーメン屋の戸を開けるとき手は戸を友の手と間違えて崩壊の演技をする。友の手はそれに気づいて笑った。握手することにより私の手と友の手は錯誤を共有できるようになったのだ。