「あっちゅ(改定)」 鵜飼千代子氏
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天皇賞(春)だったと思う。当時JRAでは、マーベラスサンデー、サクラローレル、マヤノトップガンの3強体制が築かれていた。安定した強さを持つも気性の荒いマーベラスサンデー、怪我とも戦い続けたタフなサクラローレル、遅咲きの変幻自在な脚質を魅せたマヤノトップガン。最終コーナーを回り、サクラローレルとマーベラスサンデーが正面を向く。後続の馬群はどんどん引き離されていく中、外から一頭、飛んでくるマヤノトップガン。マヤノトップガンが先頭二頭に並ぶと、マーベラスサンデーが徐々に遅れ始める。サクラローレルとマヤノトップガンがなおも競い合いながら、後ろから捉えたマヤノトップガンがそのまま差し切る。JRA史上名高い名勝負とたたえられるレースだった。
そのレースを妹と一緒に見ていた。妹はまだ幼稚園生だったと思う。興奮する声がテレビからも隣からも聞こえていた。妹はどう思ったのだろう。年の離れた妹は、何の面白さも感じずにいたのだろうが、マーベラスサンデー、サクラローレル、マヤノトップガンの三頭の名前を興奮しながら叫ぶ声をその後ずっと聞かなければならなかった。妹は不満気に廊下の遊びスペースに向かった。ぬいぐるみが散乱するスペースで、妹は人形遊びをはじめていた。
指差す言葉は何ものかと何ものかを区別する。名を与えることを命名と呼ぶのだから、指差す言葉は命を与えることに他ならないのかもしれない。マーベラスサンデー、サクラローレル、マヤノトップガン、この三頭が名を与えられなかったとしたら、あの歴史的な名レースは既に過去に葬られてしまっているだろう。どこか遠い場所に住む民族では、死んだ人の名が、すべての記憶から失われてしまった時、初めて死を意味するらしい。それらの死はゆっくりと、時間をかけて成熟される。
この「おかあさん」は「アッキー」と「あっちゅ」を指差す。「あっちゅ」は兄に与えられた名とは違い、どうやら自分に与えられた名が不服らしいが、どうやら「おかあさん」は気に入っている。自分の理想と現実は異なるのだろう。だが、その違いこそが「おかあさん」が好きな一部になる。それを当事者が知ることはできない。
「セイネン」が名をすて、意味から脱却しようとした時、引きとめたものは何か。それは「セイ」の音だった。「セイ」の音は「カラカラ」と虚しく響いたかもしれない。だが、「セイネン」はその音の中で「ダク」とした音を聞く。それは澱みなのだろうと思う。おそらく「濁」だ。
また、「僕」は重力に引き摺られて生きようと誓う。意味を求めるのだ。その意味は「僕」を研磨していくと信じている。だが、その未来にあるものを「僕」が知らないわけではない。削り落とした結果、もはや一点のシミにしか過ぎず、それが意味を持たなくなってしまうということを。
だが、「おかあさん」は両者に名を与える。当事者がいくらこうである、と信じたところで、「おかあさん」は「すきだな」と語りかけ続けるだろう。当事者が決して信じなくてもだ。「おかあさん」には意味などない。「セイネン」が皮肉を交えた「サンビ」。「僕」が見据える「引き摺る未来」。「おかあさん」は漂白する加減を知っている。スカイフィッシュを蠅叩きで打ち落とすことも出来る。なぜなら、「おかあさん」こそが命名者だからだ。
マーベラスサンデー、サクラスターオー、マヤノトップガンの三頭の名が実況アナウンスから叫び続ける。彼らの名は他の競走馬よりも多くの記憶に残るだろう。けれど、名も知れぬ競走馬たちの名が、同じように誰かの記憶に刻み付けられている。生産者の、調教師の記憶に。その名が呼ばれる限り、死は訪れることはない。「セイ」はこの世界に充ちている。
まんまるなお顔を ますますふくらませて
あなたは怒るけれど
おかあさんは「あっちゅ」っていう
よび名、すきだな
へい、「あっちゅ」。
世の中のすべての愛は、欠落の中にしか生まれないのだよ。
漂白されていく「セイ」の過程の中で「凹凸をすり減らし」ながら、いつか「あっちゅ」は『あすかさん』になるだろう。その時、もしかしたら『あすかさん』では愛されないかもしれない。そして、いつまでも磨り減らして、いつか『アスカサン』でしかなくなってしまうかもしれない。それでも大丈夫。君には「おかあさん」がいる。もはや固有名詞ほどの意味を持つ「おかあさん」はスカイフィッシュだ。存在するということは存在しないことであり、存在しないということは存在することである、君の「おかあさん」は、君が呼ぶことのない固有名詞を持っている。
もしかしたら、君は『アスカサン』という音でしかなくなってしまい、「あっちゅ」であったことを懐かしむかもしれない。その時、君は漂白されていく自分を、どうすることも出来ずにいるかもしれない。その時「おかあさん」という「ダク」を見て欲しい。その「ダク」は「濁」でも「抱く」でも「濁」でも「駄句」でもありえるだろう。君は誰にでも当てはまる「おかあさん」という名を呼ぶ。「おかあさん」は君の声に振り向く。
『アスカサン』もきっといずれ「おかあさん」になるだろう。あらゆる「ダク」を従えて「あっちゅ」であるように「アスカサン」でもありえる時が来るに決まっている。