「引き摺る未来」 Akikaze_Koh氏
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漂白されすぎた雑巾はぼろぼろに溶けた。もはや輪郭を持たない意味は、無重力の中で縦横無尽に意味を探そうとする。スカイフィッシュのように。静止画の連続をつなぎ合わせることでしか、その姿を捉えることはできない。
かつて、絶対王者に君臨したアノマロカリスの成れの果て。その生命の痕跡は、時間の矢には準じない。絶対王者のエントロピー。存在することが存在しないことを証明する。溶けた雑巾の繊維は、「午後三時の空」に「サファイア」となる。「セイネン」の不可視から放出された、繊維は「僕」の眼前で「キラキラ」と光る。可視の世界。
現代の人間は情報の約80%を視力に頼っているらしい。見えることが存在をイコールで結ばせる。証明は光を照らすこと。照明と同義語になる。かつては、それでよかった。しかしいまや、見えることだけが正当性を帯びている。「セイネン」が脱け出そうとした意味が、その定義に疑問を呈しているのだ。証明と照明は全く違うものだ、と糾弾するメールが届く。
僕は目だけで呼吸できる気がした
「セイネン」が「ヒに 向かうが よろし」と皮肉混じりに吐露した言葉は「僕」の目によって絶対的に肯定される。「僕」はまさしく重力に縛り付けられたまま、明日を見ようとする。不透明なもの、「セイ」の完全無欠の肯定。
意味からの脱却を必要としない「僕」は、意味の重みの中で、意味に押しつぶされる未来を感じている。「僕」にスカイフィッシュは存在しないものに過ぎない。漂白された雑巾の断片もまた、存在を許されない。「僕」は重力に押さえつけられながら、前進する。その重みは「僕」を小さな一つのしみにしてしまうかもしれない。「僕」は白いノートの隅に描かれた一つの黒い点に過ぎないほどになってしまう。 目だけで呼吸する「僕」は、目で見ることのできないくらい、小さなシミでしかなくなってしまうのだ。「僕」はスカイフィッシュ。漂白され、溶け出した雑巾の断片。光さえ透過してしまう、もはや不透明とは呼べないほどの存在。「僕」の歩む道、それを知らないわけではない。
明るい明日を今日も信じて、荷台に紐で結ばれた未来を、コンクリートの凹凸で磨り減らす。それは、身の程を知れなかった僕の支払う対価。それが果たして、道に見合うものであったのか、もはや、悩む時間すら与えられてはいない。
磨り減っていく身を覚悟しながら、その道を歩まなければならない。やもすれば、「セイネン」もまた、「セイネン」以前に同じように覚悟したのかもしれない。ノートに描かれた一つのシミ。スカイフィッシュ。かつて生物界の頂点に君臨したアノマロカリスのように、今、生物界の頂点に君臨する人類は、その未来、身の程を知らなかった対価を払うのだろうか。存在しないことでしか存在をゆるされないことはない、と。