人格スケッチ「偽善者」に見る「飽き性」
光井 新

 嘘を重ねて生きて来ました。善かれと思い、騙し騙し今日迄来ました。
 世の中には泥棒という悪人が居る事を教えられるずっと前から、悪とは何かを自問自答していたのが始まりです。あの頃の私は純粋に、他人を幸せにしたいと思っていました。また、それが簡単に実現できる事だと、その術である優しさというのは単純な物だと、短絡的に考えていました。まず私は、浅い人生経験の中から、自分が他人に幸せを与えられたと直感した時の状況を思い出してみては、それは他人に優しくされた時だったという共通点を見付け出し、自分が他人に優しくする事で他人を幸せにできるのではないかという一つの仮説を導き出していました。衣食住の苦労など知らない、それどころかお金という物の存在さえ知らない私にとって、幸せといえば人の優しさ位しか思い当たらなかったのです。信仰心の薄い家庭に生まれ、神に祈った事も無ければ、仏を拝んだ事も無く、子供ながら一人の時に、まだ物心付いたばかりの自分自身を見詰める他ありませんでした。優しさとは何か、人に優しくされる事が幸せであるならば、人を幸せにする行為こそ優しさではないかと、夜眠る前瞼の裏に見る自分に訊ねては、朝起きて鏡の中に見る自分に確認をして、それから母と過ごす一日は長く手持ち無沙汰に幼稚な我が儘を言ってみても、物を知らず世間を知らずに大した欲も無く、母を満足に困らせる事もできないそんな時間の中で、母の笑顔をただじっと観察しながら、幸せとは何かについて更に深く考えるようになっていました。人に優しくされる事が幸せで人を幸せにする行為が優しさというのが間違っていないとすれば、優しさは行為で、それを受ける事が幸せである。しかし優しさを受ける事と幸せは同義ではない、その事を私は知っていました。なのに何故知っているのかは自分でも解りませんでした。泣いていました。そして泣きながら、自分は今何故泣いているのだろう、と、考えていました。幸せの反対だから泣いているのかもしれない、そう思った時に、幸せの反対とは泣いている事で、


自由詩 人格スケッチ「偽善者」に見る「飽き性」 Copyright 光井 新 2010-11-09 05:40:42
notebook Home 戻る  過去 未来