窓に浮かぶ休日
番田 


日曜日の夕暮れが刻一刻と沈んでいく街の明かりがとても寂しかった。昼頃に私は目を覚まして、やるべきこともなくしてパスタをゆでていた。何も私には味付けに対するイメージが何もわかなかった。卵をいれてみようとか、ナスを入れてみようだとか考えたが、それらは結局具体的な完成予想図としては描かれることもなくイメージの中空を浮遊し続けた。ナスは紫色になり、黄色を拡散させた卵は黄土色として夜空にばらまかれていく。そして茹で上がった麺にせかされるかのように私はいつものように失敗したパスタを口にし、ナスの紫色がへばりついた皿をこれはうまいだとか言いながら流しで洗ったりしている。


コンビニにさっき行って来たらファッション雑誌があって、沢山の外人の女優さんの下着姿が並んでいて興奮した。ビクトリアシークレットというイベントらしい。解像度が洋もの雑誌よりも高かったがレイアウトされた画像自体は小さく、魅力半減といった感じでもある。なんでこんなにファッション誌なのに絵をチマチマ入れるんだろう。私は目を皿のようにして涎を流しながらそれを見て、メール便を10通ほど頼んで外に出た。郵便は使わなくなって久しいが、メール便は安いのに大きなものを送れる。選ぶのはどっちといわれたら答えは決まっている。夕べは2ヶ月ぶりにラーメンを食べたけれど、あんなにしょっぱい食べ物だったとは思っていなかった。まわりのウォークマンをしたサラリーマン風の男たちはがつがつとそれを食っている。つまりこういうことだ。ヤケ食いと同じで、こういうしょっぱいものや辛い物をストレスによって食べたくなるということなのである。スープなど飲めた物ではない。人間の限界を超えたような仕事量が普遍的な日本人の労働者を破壊していく。リーマンたちは私の横を満足したようにぞろぞろと外に出て行った。


夕べトークトゥアイコに書き込みしておいたら記事に反映されていた。アイコという遙か遠い存在が突然身近になったように感じられ、CDの限定版を手に入れたりライブに行ったりするよりもそれは身近な事に思われた。アイコが私の書き込みを読んだであろうという素敵な憶測が脳裏で反芻される。それは神秘的な出来事だった。多くの人間にとって恐らく1度として話せることの無いであろう存在である人間とー、しかもその人間は多くの人にとって普遍的に知られている存在の人間だったとしたらー、話すと言う行為自体が貴重な経験に変わる。レディガガが観客にダイブして揉みくちゃになっている映像を見たことがある。観客の奥の方にガガの運ばれていく体を見ながら、そういった存在である人の体に触れるということは声を聴いたりメールをもらったりすることよりも、もっと親近感が持てる出来事に変わるのかもしれないと思った。だからアイコの今後発表される曲に私の書き込みが反映された曲が出てくることがあったとしたら、言葉の神様という人間を拝まずにいられなくなるわけだ。たぶんそんなことはありえないだろうけれど。


夕べ私は友人とカラオケに行ってきた。彼はアニソンを選び、私はブルース系の曲を選んだ。その選択によって白と黒とが空間の中で混じり合わずに二つの世界を作っているように思われた。彼はアニソンしか歌えなかったが、私はアニソンを歌うことができた。しかし私はアニソンは好みではなかった。緊迫した選択は後半まで続いた。そのとき別の部屋からアニソンを歌う人間たちの大きな声がぼんやりと聞こえてきた。彼はそちらの部屋に興味を示した。もし私の他にいたとする二人の人間がアニソンを歌うであろう人間だったとしたら、私はそちらに流れるほかなくなるのだろう。私は始発の電車に乗り、流れ続ける濁った緑色の田んぼの風景と、何色だとも言えないようなこの国の空の色を見つめていた。



散文(批評随筆小説等) 窓に浮かぶ休日 Copyright 番田  2010-11-08 03:27:25
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