異子。亜子。
手乗川文鳥



あなたはわたしに「ななし」と名付けた
それ以来わたしは薄い皮膜を漂っている小さな虫。


光らない星、開かない窓、結ばれない紐、濡れない傘、
ない。ない。ない。ということでしか
語り得ない(ない。)
対象はいつも
椅子に座っていて姿が見えない(ない!)
臙脂色のビロードの椅子、へと、語りかけて、
ビロードの表面は鮮やかに色を失う、その織目にわたしは海を見つけた、
海底の砂にまみれる、頑なな貝を見つけた、
そして貝は小さく気泡を洩らしながら、砂に隠れてしまった、
とじ合わせた中に、わたしの本当の名前があった/指先が触れる/
ビロードの起毛、四つ足の椅子を抱く、潮騒は遠のいて、
吐く息が中空で破裂する
まぶたのないわたしが群れになって泳ぐ
泡のない朝と昼と夜と、円環の水槽、
白波の向こうで(椅子の声)あなたがわたしを呼ぶ、
わたしはななしだから応えることが
できない/ない。


穴ぼこから出て穴ぼこを埋めて自分の穴ぼこに触れるみちすじ
夏の終わり、あなたはわたしを夜の海へ連れ出して
誰にも言わないで、と言いながら、わたしを砂浜に沈めた、
海面では緑色に光る小さな虫が浮いていて、あなたはわたしではなく虫をすくい上げて、
わたしはそのまま損なわれてしまった、
「虫は、光らなくなりました」
「あなたは、つまらなさそうに、虫を海に戻しました」
「そして手を取って、帰ろうかと言うのです」
「あなた、それはわたしではありません」
虫。
手を引かれていくのはわたしになった虫、
波打ち際でよろめいて光っているのがわたし(消えそう)
それからは、いかなる場面においてもわたしはいて、けれどそれはわたしではないので、
空白に。行間に。睡眠に。暗闇に。重力に。
わたしは溢れながらこぼれ落ちて這い上がってきりがない、
地面が崩れて裂け目からたくさんのわたしが顔をだしてすぐにわたしで満たそうとする、
埋めたい!埋めたい!
ありとあらゆる隙間と空洞を埋めます
わたしで満たされます、
いつか隙間や空洞はわたしと呼ばれます
けれどわたしはななしなので
隙間や空洞も名前を失っているのです
あなたは困り果てていつか
アレ
と呼びました
「「「「こんにちは、アレです」」」」
網戸にしがみついたりします、窓を全身でノックしたりもします
光沢のある身体の色に名前はあるのか知らない


わたしの腕をむしりとり、
わたしの脚をもぎとって、
わたしの頭をひねちぎり、
わたしの中には、なにもなくても、
中身を確かめる、あなたの視線がわたしを貫いた瞬間
わたしはただの空洞では、なくなったので、
あなたの靴底に踏みつぶされても良いです
わたしの破片がソールにくっついています
なんども地面に擦りつけて、または擦りつけながら歩いて、
わたしの窪んだ細胞を、どこか遠くへ連れて行って、
そしてわたしがわたしでなくなっても、あなたはまた新しいわたしを見つけて、
そしてひらりとすりぬけて、
わたしは一斉に震えるでしょう、
空白が、行間が、睡眠が、暗闇が、重力が、
フルフルフルフル。





小さな虫が浜辺に浮いている
緑色に光っている/(それ以上、行ってはいけない)
わたしは「夜光虫」、と言って、あなたは虫を手に取って、
光るのをやめた虫が死んでしまいそうでそれであなたは海に戻して、
そっ、と、/(伝わらなかった振動。波間から月明かりが人の顔をしてこちらを見ている。)
そのようにわたしに触れてくれれば良かったのだと
虫に嫉妬したときからわたしは
名前のない虫に分類されたのです





自由詩 異子。亜子。 Copyright 手乗川文鳥 2010-10-22 01:54:12
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