演劇の有用性について
salco

人は誰でも他人の黒衣。操っていると思っても、操られている。
阿呆のからくり糸巻車。
そろそろ時が来たようね
中世から、このてのひらの上の地図まで時がなぞる、阿呆の船の輪郭。
ガリレオ・ガリレイをひとさし指にくくりつけて、
墜ちてゆく墜ちてゆく 天国のてっぺん 
天動説に眼を射られ、地動説には釘を打ち、
身は囚われて船底に、人動説の時を待つ!
                      「阿呆船」寺山修司 

〜前置き〜

演劇実験室 万有引力の「阿呆船」多摩パルテノン広場での公演を観た。
「アングラ演劇」なる括りも死語となって久しい現在、寺山修司の演劇集団・天井桟敷の流れを汲み、その演劇論を忠実に再現するこの劇団は、当然ながら
時代風潮の変遷に取り残されたように貸し劇場で年数回の公演に留まる経営状態のようだが、今回は市の協力とスポンサーも得て大規模な野外公演を挙行す
る事ができた。文化事業にはどの自治体も企業も尻込みするこの不況下、まことに慶ばしい椿事だった。とりも直さずそれは寺山修司のネームヴァリューで
あり、広大な会場を埋め尽くした観客の一人として「寺山ワールド未だ古びず」の凱歌に陶酔する一夜でもあった。
バアさん連中の認知力に媚びるだけの商業演劇や、空騒ぎにひた走る小劇団ブームには乗れなかった事情もあり、知力と暴力が臭気まで放ちながら雄叫んで
いた70年代の演劇状況を垣間見られる機会が、自分には途方もなく有り難い。遅きに失して知り損ねた猛々しい知性の企て、その訴えは、今なお観客を高
揚させ、憧憬を掻き立ててやまない。
これは酒呑み、法螺吹き、狂人など、社会から愚者・阿呆として疎外される者達の船出を描いた演劇だったが、人工池の上に舞台を組み、美しい投光の中で
展開された華々しくもおどろしい祝典については、門外漢が感想を述べたところで価値はない。帰宅後は興奮を整理する為に、演劇の役割について改めて考
えてみた。


〜個〜

「わかってもらえない」「許容されない」
社会的阿呆でなくとも、これは人の胸にいつもこだましている声だ。
ただ我々が「涼しいアタマ」でこのフラストレーションに拘泥せずに済んでいるのは恐らく、属する小集団で規範に則った最小限の主張と最大限の共感を
やり取りしている満足の他に、理解されるより理解すること、知られるより知ることに比重を置いて生活しているからなのではないか。殊に自他の峻別・
現象の弁別を完了して慣性に生きるオトナとは、そうした動物なのではないか、とそんな風に思われる。
知る、とは人間の宿痾であって、日常生活に於けるその欲求は、しばしば自己保存欲求より強いしまた重要なのだ。チョモランマ北壁でビバークする登山
家を引き合いに出すまでもなく、カレシの携帯電話をチェックしたくて仕方がないお下劣と、火星の大気成分を解析した科学者の探究心は等分・同質であ
る。知能の次元、些事と大局の違いさえ関与しない。単に執着の対象が異なるだけで。ただ、よきエゴイストがお行儀いいのは必ずしも人徳ではなく、知
による自己客体化がエゴを概ね包括してしまうからだろう。

そして知る、とはやはり行き来する事で、たとえ座せる無為の小旅行であっても、実体験下の精神的経験と同等に数えられもするのだ。実際には相手なき
対話、プラセボ麻薬でのトリップだとしても、内耳で渦巻き血管を経巡る官能は確かに存在する。譫妄に近いと言えば近い。せっかく器用な指を持つのに、
空想上の自慰に耽溺するのも人間性の論拠らしい。何故なら未知は日常を刷新する至上の逸楽だ。キュリオシティーはキャットをキルし、人間はブラック
ホールと引き合ってやまない。
優れた人間の想像力というものはこの欲求に応え、常人では乗りこなせないスペースシャトルでの暗夜行路をタダ同然で凡人に提供してくれる。だからこそ
同乗を許された我々は、遊び飽いたおばあちゃんの幽霊やこっくりさんシートを放り捨てて新しい次元へ進むことができるのだ。
人類の「ぶっとび」はそれなりの航空力学を要求する。誤認に端を発するのであろう河童やイエティと違い、ウルトラマンやエイリアン同様、鬼やガーゴイ
ルはそこいらの土百姓の妄想が発祥地ではないだろう。善悪、神や悪魔に類する力学的新生物を案出した庶民階級は、多分いない。神は権力の箔づけの為に
為政者側から提示され、対立項としての悪も、意匠から出自の枝葉末節に至るまでシャーマンや律法学者のような知識階級が編纂したものだ。
幼い頃テレビで観た「ミクロの決死隊」も「ドクター・何とかの不思議な島」も、プロットや映像技術が貧だからと言って馬鹿にはできない。40年以上も
前の茶番劇が現在の細胞治療と遺伝子操作を如実に言い当てていた、その意味では人智が向かうもう1極のベクトルを描いたアーサー・C・クラークと
スタンリー・キューブリックへの敬意に等しく値するのだ。とりも直さずそれは人間の想像力と、どんな荒唐無稽をも実現化してしまう潜在能力への敬服で
もある(科学があらゆる現象を解析し想念の具現化を目指すものである以上、知の予測性に感嘆する意味はない、というような事を阿部公房が書いてい
たが、私のような知能ではこの程度の認識しか持ち得ない)。

そしてそれは活字の行間に黙然と見るより、スクリーン上のCG合成で観るよりも、数十メートル先で生の息づかいと共に展開する劇場空間が、最も原初的
かつ強烈な同時体験としての感応を惹き起こすのは間違いないところだろう。舞踏も然りコンサートも然り、キリスト教徒のミサなんかもそうだ。おおよそ
の人間は人間に、とりわけ生身の人間に最も強く感応する。文学は対孤独の語りかけだが、劇場空間は感応の坩堝だ。この相乗作用は大きなうねりとなる。
昔日の女子達はビートルズにまつわるウエット・ドリームと正夢の不可触の間でショートし、合衆国の黒人は歴史的社会的屈辱と自己解放との挟間で、牧師
の説教やゴスペルに失神したりする。あのエクスタシーはキング牧師の“I Have A Dream.”朗々を聞けば、大東亜共栄圏の悪虐に踊った脛
に覚えの極東人にさえ理解に遠くない筈だ。鳩山兄弟へは欠伸しか出ず、ケネディ兄弟へはマリリンとの相関図しか思い致さぬ私なんかもう、目からおしっ
こ滂沱だ。涙が尿に見えてしまうのは黄色人種で、いかんせん被抑圧、被差別体験を有さない日本人の土百姓階級の末裔だから仕方がない。
ヒトラーの演説もその辺の計算おさおさ怠りなく、振り返れば統帥天皇を戴いた大本営と大政翼賛の勃起担ぎも同様、その鼻息の荒さについては北朝鮮のア
ナウンサーが見事に再現してくれている。ああした連中も劇場を展開して我々を引き込んだのだ。何故なら我々は性的興奮に弱い、政治思想的発揚に弱い。
体制と大義に弱く、偶像崇拝と英雄譚に弱く、恫喝と神輿担ぎに弱く、水子の祟りと現世利益、防犯グッズとジョニー・デップの双方に弱く、時代風潮に集
団心理に弱く、優越感や民族浄化にとりわけ弱い。

そこで1億総懺悔の気分がまだ漂っており、大方カルトを信用せず極右・極左思想に警戒感も抱く現在の我々小市民としては、このカタルシスが相当に緩和
され健全に制御されている市井の劇場へと足を運ぶ。ご長寿女優のでんぐり返しを寿ぎに帝国劇場へ行く人もいれば、スズナリ辺りの貧乏臭い客席に肩を
すぼめて自分より貧乏臭い俳優達に暫時呆れる人もいる。どちらも祝祭であり非日常の、深い深い地母神のアソコの穴なのだ。アソコとはココでもソコで
もない、懐かしくも謎めいた遠方なのだろう。
そこで我々は息を潜めて人間を見る。剥き出しの、見た事のない見覚えのある人間を、その内面世界が現実世界を圧殺凌駕して立ち現われるのを目撃、と
いうか疑似体験するのだ。時には狂気の内実をも垣間見るのだろう。その幽明のあわいで何か神々しいものや、日常では決して嗅ぎたくない禍々しさにも
接するのだろう。古くは公開処刑や見世物小屋が提供してくれていた淫靡なくすぐりも期待する。セックスと袋叩きが祝賀典礼と並ぶ我々の愉悦であり、
現代は窃視視姦でささやかに代償していることも言わずと知れている。
また劇場での体験が何を及ぼし、どれ程の時間生き続けるかは個人によるので、決してメデューサの一瞥やトラフグの卵巣ではないという、この安堵も我
々観客には捨て難いところだ。
つまり舞台演劇が映像媒体と違うのは、限られた条件の中で、生身でヒマ潰し以上のものを観客に提供しなければならない責務に尽きる。だからジャニー
ズ事務所のアイドルか、瀕死の大女優でも宙吊りしない限りは儲けが出ない。何と割に合わない商売だろうか。とても商売にならないので、宿業と言った
方がいいかも知れない。

してみれば、非日常、非存在を知るという往復を日常的に訓練し理論に則って行なっている「役者」というのは、ただの媒体ではなく、暗示の舌先三寸で
口を糊する巫女や霊媒などより遙かに有徳な社会的役割を担うと言えるわけで、その経験値は確かに素人より刻みが深いのだ。それに比べれば、今日26
億円を動かした兜町ディーラーの自画自賛が一体何だろう。また我々観客も、演劇を通して蠢動するナマモノの、躍動する異世界を垣間見、浅く狭くは知
るだろう。少なくとも我々の内面に、虚実の境界線など何処にもありはしないのだと。


〜疎通〜

演劇の存在意義は人間と人間、森羅万象と人間との間に介在して行き来をさせる、その極めて直截で能動的な機関性に在るのだろうと思う。と同時にその
企まれた空間は、消え去った時間ともつながる通路なのであろうし、拡大解釈すれば、与り知らぬ未来とも繋がっているのかも知れない。音声も動作も瞬
時に消える1回性の仮想世界であるにも関わらず、こうして考えると不思議な逆説だ。一体これは何だろう、やはり人間の通奏低音みたいなものなのだろ
うか。
確かに私も、時間軸をも超えて響き合っているという錯覚にとらわれることがある。パヴロフの躾にがんじがらめの飼い犬がサイレンに遠吠えするように、
ふと共鳴器官のスイッチが入るみたいな瞬間がある。尤も、先史時代の毛深いA子さんも同じような日常の些事に溜息をついていたのは想像に難くなく、
当然と言えば当然なのだが。
とすれば、こうして演劇の企まれた虚構、その嘘が懐から出してみせる真実らしきものが、宗教がせちがらい自爆テロの具足にまで零落した今世紀も、
科学と肩を並べ続け得るのだと、門外漢の私にも結論できるようだ。
すると人間はやはり、法身仏の三密や神の秘蹟に仮託するのではなく、人間自身の掌によってわずらう額を治癒されたいのではないか。本当は人間の理に
信を置きたいのではないのか。それはつまり、実は万人が神の非在を知悉している証左なのではないか、と疑うのだ。私だって行路病者だったら、マッチ
なんか擦るより早いとこマザー・テレサのキャンプに運んでもらって、ふるまいお粥で現実逃避したい。

と同時に、偶像崇拝を厳禁するイスラム教徒がかくも頑迷に盲信し得るのは、言語戒律の束縛を解くイメージの具象化・神格の擬人化が働かないからでは
ないのか、との憶測もできるわけだ。讃仰しようにも慈悲深きアッラーには顔がない姿がない。カーバ神殿の躯体は宇宙のような漆黒でその矩形は拒絶的
であり、しかも内奥に御神体がおわすわけではない。想像力に蓋をする信仰は、視点が文律に固定されるが故に原理化・尖鋭化する。
契約条項でがんじがらめのユダヤ教は民族主義に固執するあまり弱体化し、民族が離散すれば四囲の異教徒に異端視され、その都度フルボッコの憂き目に
遭って来た。一体、姿なき神に血や涙はあるのだろうか。
いちいち人間臭く動物づらのヒンドゥーの神々がかくも愛らしく、いい意味ユルいのがその最たる対照だ。無論、ヴィシュヌやシヴァとガネーシャの間に
は力学的序列があるのだろうが、信仰対象としての神威は分散している。同じくプリミティヴな多神教が残存する島国のヤオロズは自然科学で駆逐され、
気が向けば旭日に柏手を打つものの、あの恒星を天照大神などとは誰一人思わない。アッラーの原型と言われる唯一神・ヤハウェの息子を標榜した混血児
は、為にそちこちの布教所で磔されたままハリウッドに飛ばされブロードウェイで木戸銭集めをさせられ、あろうことかすっかり無毒化されて、二束三文
で異教徒のジュエリーショップに並んでいる、などなど(キリストは忍受寛恕の人だから、それでいいのだろうが)。

しかし神々の身の上を思う時、より巨大な現実が目の前に立ち現われる。我々が彼等を超えた時代、核兵器により実質的にも絶対者になりおおせ、年々歳
々母なる惑星を二酸化炭素と放射性廃棄物で損壊する中、後戻りできない現在に於いても尚、人間はおのれを救うことが可能なのか、というそれはアンチ
テーゼに他ならない。
父殺しを敢行し母を犯して尚、オイデュプスはおのれの目ん玉にアイスピックを突き立てずに済むのか、3歩先か30年先は自己処刑的暗黒なのではない
のか。
と、こうして我々の状況が文学の方法論をぐるりと回って(回り尽くして)、ギリシア悲劇まで立ち戻っている事実に気づかずにはいられないのだ。
哲学者も政治学者も匙を投げた、この父なしインセスト野郎の希死念慮に取り組めるのは、事実上アタマの狂った物理学者の夢想だけであって、この上
道を模索する手段が演劇という文芸手法の、容積の小さなチャンネルに残されてあるのか、というのも途方もない課題には違いない。

ところでその時我々は、ミッフィーちゃんの意匠やサザエさん一家のありようで絶望を忘れられるのか。まさか。結局その時は個に収斂せざるを得ないの
だろう。理知を離れ希望を離れ、思考からさえ離れて配偶者や同居人、肉体知己(所謂恋人)或いはペットの侘しい体温へと向かわざるを得ない。
決して1歩を踏み出すことのない、それは家畜小屋への名誉なき撤退であり、ただ習慣的な、最も卑近で脆弱な実存の1点へと還ろうとするだろう、と思
われる。こうして我々が怯えた虫けらの防御体勢にまで萎縮する時、人智が今までお外でして来た高邁な遊蕩や労作に一体どんな意味を付与できるのか。
例えばヴェスピオの火砕流が向かうポンペイで、御巣鷹山の尾根へ激突する日航機の中で、頭を抱え両膝を胸に引きつけるフェイタル・ポジションを
取った人々が内包する恐怖と絶望に対し、あの世の主でもこの世の家族でもない文明は文化は文学は、一体何をしてやれるのか。


〜拝呈〜

そこで、演劇がこれから負うべきテーマは一体何なのか、そのステージは何処にあるのかを御教示頂きたく思うのです。
それはやはり予言ですか? 笑止千万な小劇場的小手先の惑乱や商業演劇的予定調和の回想でないとしたら、相も変わらぬ絶望の共有だけなのでしょう
か。余りに古臭いベケットやイヨネスコの内省宿便を見飽き、くされヨハネや亜流の黙示録など聞き飽きた我々に? 

現実を、演劇は負えるのでしょうか。或いは負いかねる現実に、演劇は解体の試みを再度提唱できるのでしょうか。核弾頭搭載ミサイルの放屁より前に
上昇海面がモルディブやインドネシアの足首を舐め始めた今、演劇は何を壊体し何を構築し得るのか。
テーマが誇大とは言え、焚火の周りで幽魂をり舞台に神を顕現させ、始末もした歴史を我々と共に歩んで来た演劇ひいては演劇人には、それに答え提
言する権利、義務があると思いますが、いかがでしょうか。はじめに言葉ありき。何故なら演劇はジャーナリズムです。我々人間は、感情さえも言語化
の檻から出られない。

或いは終極の演劇は、娯楽のトリックスターとしてやけくその一大祭典をぶち上げる余力を残すでしょうか。ええじゃないかの狂喜乱舞へ参集者を引き
込み、何の意識革命でもないウッドストック、忘我自失の乱交花の万博で人類史を葬送し得るでしょうか。
何故なら辛気臭い礼拝は各宗教がおのがじし会堂で執り行ない、そこでは転生や復活というレクイエムの欺瞞が司祭によって語られるだけなのでしょう。
彼等の権威的無能には、個人的にくそでも食らえと申し上げるほかありません。よしんば考える人・日本代表の大江健三郎さんが近所の講堂で講演会を
開いたとしても、この期に及んでそんなもの聞きたいとは思わない。
しかし他方、我々が髪に花挿しストーンエイジの肉食祭りで輪になって踊る時、その様相は一体我々にとって何であるべきなのでしょうか。前途に光明
を失った人類であるにせよ、退行的回帰に何の意義があるのか、これも私にはわからない。
救済を求めているのでは勿論ありません。演劇の文脈にそんな力はない。たぶん私は小さなエネルギーをそこに見たいのです。意思の機動性とでも言い
ますか。
映画で見た手を思い出します。葬儀場の方向を指し示すあの指を貴方様がどんな意図で使っていたのかは不分明ながら、今や引率力はないとしても、ま
だ指先を舐めて障子に穴を開けるぐらいはできるのではないかと思うわけです。案内。導き。示唆。演劇とは見立てであり、その見立てとはやはり打破
の企図、転位と再構築でしょう。

小さな穴を開けて頂きたい。そこに人間のくそ力を見たいわけです。哄笑でもいい、中指1本でも。反権力、脱藩、自律。観念としての飛び続けるたん
ぽぽの種と、精神としての風力。これぞ民草の、個の、指先の喜びでなくて、一体何でありましょう。貴方様はそれを、格段に自発的な人力飛行機にな
ぞらえていました。人力飛行機。何と力強い、悲壮なまでに美しい想念だったでしょう。そして今尚正しい。唯一無二の選択肢と言えるほど正しいと思
われます。
手足が飛ぶ血祭りの空疎、結局は自食に終始する方法論でしかない軍事衝突、武力闘争、テロリズムに対峙する、理知の発動。その旗手。これが演劇を
含めた表現芸術の位置だと私は考えるのです。政治が世界の大局を動かす力学ならば、「小局」は我々衆生の側に在る人間の声でしょう?

前略の非礼、無知で的外れな独善的解釈に基づくだくだしい乱文の厚顔無恥と、手前勝手な疑義を呈する無礼をどうかお許し下さい。末筆ながら、秋冷
の候どうぞご自愛下さいますよう。
                                                                  敬白

寺山修司様

 
さあ船出だ 銅鑼が鳴る 万の書物に火を放て どうせ滅びるこの世なら せめて一度の狂い咲き       … 劇中歌「阿呆船」より



散文(批評随筆小説等) 演劇の有用性について Copyright salco 2010-10-18 19:51:41
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