母の靴、私の靴
豊島ケイトウ

 母が私の靴をはいて出てしまった。
『せちがらい世の中です。どうか探さないでください』
 朝起きると母の書き置きがあった。あまりにも淡白なセンテンスだった。私は泣きながらトーストをかじり、泣きながらアイスコーヒーをすすった。泣きながら新聞を読み泣きながらNHKのニュースを見て泣きながらトイレに向かった。何一つとして私の頭にはつめ込まれなかった。母が出てしまった、という情報だけが何度もひるがえった。
 三年ほど前だったか、母は、「……いきなりですが家を出ようと思います」と、中学生の私に告げたことがある。正座して。くそ真面目な顔で。それを聞いた私はまず、なるほど、と思った。なるほど、そうきたか。そして――ああ、私に母をとめる権利はないだろう、と、達観したのだ。
 達観した私は、母の頭をなでてあげた。
「だめな母親でごめんね」母は涙声で謝った。しばらくして、私は、実はもっとこのひとを泣かせてやろうとしているのだ、ということに気づいた。だから、
「だめじゃないよ、ぜんぜん」やさしい言葉を口にすると、案の定、母は食卓に突っ伏して泣いた。いい気味、などとは思わなかったけれど、少し、私の気分は晴れた。
 結局、母は家を出なかった。翌朝にはいつもどおりの「ジブン」を取り戻していた。
 だから今回の家出は、なんていうか――ほとんどふいうちだった。私は身構えるのをすっかり忘れていた。
「せちがらい世の中です」母のセリフをまねてみる。二、三回繰り返し、それをていねいに咀嚼したあと、私は玄関に行った。
 靴箱から母の靴をすべて取り出し、その中の一つを磨きはじめる。
 私たちの足のサイズは同じだ。寸分の狂いもなく。けれど、好みや愛着度は違う。私は靴を愛している。母は、たとえぼろぼろになっても頓着しない。スニーカー、パンプス、ハイヒール……母の靴はどれも薄汚く、貧相だ。
 そんな母が――私の靴をはいて出てしまった。私は、このままありとあらゆる靴を磨きながら待っているつもりだ。母が私の靴を返すまで、だめな母親でごめんねと涙声で謝るまで、ずっとずっと待ちつづけるつもりだった。汚れは一向に落ちそうにないけれど。


散文(批評随筆小説等) 母の靴、私の靴 Copyright 豊島ケイトウ 2010-10-06 10:14:14
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