パレットと楽譜と指揮棒と
番田 

今夜眠れるとしたなら、すでに朝方になっているような気がした。しかしその思いつきは何故か心の中の気持ちを落ち着かせた。私は自分についての世界を思い浮かべる。まだ訪れていないものは、ひらめきのようなものなのだろうか。しかし私にはまた憂鬱な時間が、心の中にまた訪れようとしている。夜眠れるかどうかなどということはわからない。子供の頃、周りで声の走り回っていた時間には、公園の色々な拡散する色が目の前で音階のようなモザイク状なって、見ているそこらじゅうに散らばっていたものだった。私は失われたような街で、色彩の形を見つめさせられながら、疲れさせられていた。私はそこに通過する空気のような物体をのばした手に、そこに存在しているであろう、その何も感じている空間の中には存在しないように思わされた。どこにも浮遊すらしていない、その物体の在処を私は時間の中で必死になって。やはり夜の中に存在しているのは、ゆらぎながら流れていくだけのその時間だけ。わからないけれど今日も訪れていない思考の出入り口の中では、前に浮かんでいる世界というものは、何も見つかりそうも無かった。時間は時間の中をひたすら目まぐるしく流れて行く。時計は存在として回らされているだけなのかもしれない。私は歩き続けた。


そうしてふと、先ほどの音楽の印象を打ち消さずにはいられない。たぶん感じられる楽しみというものは、音楽がその代表的なものなのだろう。音の中にひとつのイメージされた様々な感覚が私の中で踊り回っているかのような。お香の香りの中にも、私は、幾分選ぶのに少々苦労することがある。


お香を手に入れてきたのだけれど、お香も、目を閉じていても感じられるその楽しみの一つなのだと思う。そんなふうにして朦朧とした意識の中で私は窓の外を見ると、外も薄暗くなっていたかのように感じさせられた。そうしていつのまにか日は落ちていた。かつてベートーベンが生きていた頃の様なー、時の瞬間の感情が音階となって爆発するのを色々な瞬間に感じとった。私は今日も穏やかな時間が終わって行くのだろうと思うとー、洪水のように噴出しー、私は腰かけた上で少し失いそうになった。だからベートベンの曲でも何かを思ったのであるー。誰が聴いたとしても、漠然とした印象をそこから受けるにちがいないと耳を傾けながら私は予想した。第二合奏にすぐに移った。印象をかき消すほどの穏やかな場面がまた展開しはじめた。そんな時間を、ぼんやりと私は過ごしながら、部屋の中に帰ってきた。レコードを駆使してその感覚を手に入れるのである。きっと音楽は色々な構成される芸術のひとつだろう。違う匂いのハーブや仏壇用、瞑想用、宇宙をイメージさせるものやリラクゼーション用のものなど様々な種類がある。ぼんやりと差してきている日の部屋の中で今日もぼんやりとCDを再生している私は音楽を聴いている。赤や緑色のパッケージによって空間をイメージしたかのような絵を見ていると、私も死ぬまでに一度はこういう仕事にタッチしてみたいものだと思った。


散文(批評随筆小説等) パレットと楽譜と指揮棒と Copyright 番田  2010-10-04 02:00:12
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