花冷え
豊島ケイトウ

 もうふた月ほどたつだろうか。わたしは毎日、すこしずつ家財を捨てている。家財、といっても、どれもさまつな――そのほとんどは夫と共有して、それなりの思い出がつまっているのだろうが、もはやさまつとしかいいようのない――ものばかりだ。
 夫は、わたしの行動に気づいているのかいないのか、いまだになにもいってこない。新婚旅行中の写真やそのときに購入したささやかなお土産、両親からもらった夫婦茶碗、つきあいはじめのころいろいろと交換し合ったプレゼント、それらがなくなっても、彼の生活には支障がないらしい。わたしは腹がたって、ますます依怙地にものを捨てていく。夫はなにもいってこないままだ。どの程度この家がすっからかんになれば不審感をいだくのか。
「ねえ、変わったと思わない?」たまらず、訊いた。
「思わない」夫は答えた。
 それからも、わたしは嬉々として「掃除」に勤しんだ。踊ったり鼻歌をうたったりしながら、ゴミ捨て場に通った。
 ある日のことだ。昼下がりという極めて早い時間帯に、背広姿の夫が帰ってきた。洗濯物をたたんでいたわたしは呆気にとられ、ただ、その場に坐り込んでいた。夫は階段を荒々しく駆け上がり、まもなくずいぶんと嵩のある旅行鞄をたずさえて降りてきた。わたしの目の前で仁王立ちになり、
「泣けよ」と、いった。
「泣けよ」ふたたび、いった。
「泣けって」みたびいわれる前には、わたしは涙をぽろぽろ流していた。夫は口のはじをゆがめ、これまで見たこともないほどのはかばかしい表情で、笑い声をたてた。
 わたしは泣きつづけ、夫はかんらかんらと笑いつづける。一本の映画を見終わるくらいたったころ、夫はようよう家を出ていった。わたしはすでに泣きやんでいたが、それはからだのなかが空洞になっているからだった。腕や肩がぶるぶるとふるえていた。
 寒い、と思い、窓の外を見た。おとなりの垣根から桜の木がのぞいている。蕾がひらきかけている。ああ、もう春なのね、と、わたしはひとりごちた。そして、こんな花冷えの日に、夫はいったいどこへ行くのだろう? と、首をかしげた。
 落ち着きを取り戻してから、立ち上がった。けれど、するべきことがわからず、また途方に暮れた。あたりにはなにもなかった。捨てきれなかった、無音の空間のみ取り残されていた。
 枯れ木のようにたたずむわたしは、しかたなく、ほほえんだ。


散文(批評随筆小説等) 花冷え Copyright 豊島ケイトウ 2010-09-27 14:48:27
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