「名」馬列伝(18) ノーザンポラリス
角田寿星


冬の中山、新馬戦。14頭立ての芝1800m。
ゲートが開いて一頭だけなかなか出てこない馬がいた。彼だった。
大きく出遅れて4角まではとことこ付いていき、直線だけでごぼう抜き。2着に入る。
ラジオ解説者が「ゲートの中でぼーっとしておったのにすごい脚を…」と興奮気味にまくしたてる。
彼の名前を胸に刻みこむのに充分な内容だった。

ゲートの出が悪いのは、解説者の言うようにぼーっとしてるからではない。
多くの場合は気が小さく、気性に問題があるわけで、その癖はなかなか治らなかった。
ほぼ毎度ゲート内で暴れ、立ち上がり、出遅れ気味にスタートしては、捲り気味に追い込んでいく。
それでも青葉賞では、ゲートで立ち上がりながらも、何とか無難にスタート。
最終直線。エアダブリン、サクラローレル、一団となって真中から伸びてくる集団の中に、彼もいた。
2着。ちなみに青葉賞はこの年から重賞に格付けされ、ダービーの優先出走権も3着までに拡大された。
かくて彼はキャリア5戦めでダービーに臨むこととなった。
この年の本命馬は、後に三冠馬となる、言わずと知れたナリタブライアン、である。

が。折角の晴れ舞台、ダービー本番でも、彼はゲートで立ち上がってしまう。
あおり気味にスタート、当然出遅れ。
道中後方で、向こう正面から早めに上がっていく。
鞍上の談話では、本命馬を潰すために早めの仕掛けを試みたらしい。
そう、騎手は勝つつもりでいた。それだけ、彼の素質に惚れ込んでいた。
結果は残酷なものである。彼は本命馬に並ぶことはできなかった。仕掛けは不発。
ナリタブライアンもまた3角手前からロングスパートをかけ、残り1ハロンでさらに突き放す。
5馬身差の圧勝。
彼は5着だったが、直線よく伸びた。けして今後を悲観するような内容ではなかった。

秋緒戦の嵐山ステークスが、彼のベストレースだろう。
当時の同レースは、菊花賞と同じ京都芝3000m(この年だけ阪神だったが)。
準オープン戦だが、菊花賞のステップレースとしても大きな位置を占めていた。
夏より一回り馬体重も増えた彼は、珍しくゲートをまともに出て、早めに先頭に立ち、上り最速で快勝。
まさにテンよし、中よし、仕舞いよしの、5馬身差の完勝劇で、レコードタイムのおまけつき。
ナリタブライアンの三冠を阻止する数少ないライバルのひとりとして、菊花賞の舞台に立つはずだった。

しかし、本番の菊花賞に、彼の姿はなかった。
嵐山ステークスのレース後、彼は深刻な脚部不安に陥ってしまう。
もともと脚元に不安のある馬だったらしく、厩舎スタッフは、わざと飼葉を食い込ませ過ぎずに、軽めの仕上げで出走を続けてきたらしい。
それでこの戦績は立派なものだが、とうとうパンクしてしまった。
脚部不安は思いのほか重傷で、復帰までに1年以上の歳月を要した。

復帰後の彼については、あまり言葉を多く使いたくない。
彼の強さを信じていた者にとって、この結果はあまりに寂しく、悲しい。
わずかに、復帰緒戦の阪神大賞典、あの伝説の、ナリタブライアンとマヤノトップガンのつばぜり合いに、最終コーナーまで加わっていたのが、いい思い出である。
さらに私事であるが、競走中止、能力喪失の後、乗馬になったことまでは筆者は知っていた。
種牡馬になれなかったな、と残念に思っていた。
が、そのレースの怪我がもとで、1年もしないうちに死亡していたことを後年知った時、言い知れない寂しさと申し訳なさが筆者を襲ったことを思い出す。


ノーザンポラリス   1991.5.5.生  1997.12.18.死亡
           11戦2勝
           主な勝ち鞍  嵐山S  青葉賞(G3)2着


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(18) ノーザンポラリス Copyright 角田寿星 2010-09-25 19:44:33
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