即興詩人
豊島ケイトウ

 昔、近所に即興詩人がいた。即興詩人は髭を剃れば三十代前半で、無精髭のままだと五十代後半といった容貌だった。優しそうな一重瞼と筋の通った鼻と、あと、誤って舌を噛んだら痛そうな犬歯が印象的だった。背は小さかった方だと思う。いつも目やにをつけていた。そういえば、猫に好かれるたちであった彼は、猫を宇宙一嫌っているらしく、毎日近所の猫にたかられては追い払っていた。追い払うとき、邪険そうに眉をしかめてみせてはいるものの、怒鳴る、あるいは足で蹴飛ばす、などという手荒な野蛮なことはせず、「しっ、しっ!」とささやきながら手のひらをひらひらさせるだけである。無害の人なのである。家族はいなさそうだったし、親戚からは避けられていそうだったし、家も車もスーツもテレビも電子レンジも歯ブラシも何一つ持ってなさそうだった。当然、恋人もいない。友だちもいない。かりに、神様のいたずらか何か神秘的現象によって恋人や友だちができたとしても、彼はきっと、ものすごく困ってしまうだろう。彼は孤独を愛し、孤独を育てることが彼自身のありかたなのだから。でも、どういうわけか、彼には帰るところがあるようだった。それに身なりもちゃんとしていた。ほとんどTシャツとジーンズという組み合わせだったものの、見かけるたび、違うものを身につけていた。即興詩人は、無論即興で詩を作ることに一命を賭していたが、たまにコンビニの店員をしたり工業地帯に建ち並ぶ工場を転々としたりしてなんとか食いつないでいるみたいだった。わたしは一度だけ、詩を作ってもらったことがある。それはこんな詩だ。もともと世界は一連の階段だった/一段一段に彼がいてあなたがいて僕がいる/その下には彼とあなたと僕のご先祖様がいて/「あ」が「あ」になるように「さ」が「さ」になるように/首をひねって/ひねって/ひねるたびに一人死に/二人死に/「ら」が「ら」になる少し前に「ん」を「ん」で終わらす少し前に/階段のとば口はお墓でいっぱいになりました――わたしは今でもときどき反芻する。


散文(批評随筆小説等) 即興詩人 Copyright 豊島ケイトウ 2010-09-19 17:19:17
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