三年後は?
はるな


台風が遠くの海にさしかかったと聞く。わたしのいるところは、晴れていて、暑いがきちんと秋の日差し。さしこむ光の色が橙で、日が傾いているのだと思う。

わたしは空調のきいた室内で、窓の横に座っている。一人で。部屋にはわたしのほかに誰もいない。テレビも、ラジオもついていない。静かだ。何もかもが遠くにあるような気持ちになる。物事は遠く、あるべきところに収まり、わたしは世界に介入していない。そういう気持ちになる。部屋と同じように、こころは涼しく静かになっている。もう少したてば、わたしはわたし自身からも遠くにいけるだろう。

そして、つねに不安はそばにいる。もうずっとだ。わたしは不安とずいぶんと打ち解けてしまった。不安は不定形で、なまぬるく、ぶよぶよとしている。もぐりこむと、自分の皮膚が厚くなるような感覚で、社会や音は不快に遠ざかる。
不安なのは、ほとんどすべてのことに対してだ。働くことや食べること、着ること眠ること、死ぬこと、時間について、音について、自分の体の造形、明日の天気、株価の変動、バーガーショップのキャンペーン、来月の給料、人々の流行や思考、携帯電話の料金、車の不具合。
もっとも不安なのは、いまのところ、生きていることに関してだ。生きているのは不安だ。生きていれば死ぬかもしれない。また、死なないというのは、死ぬまで生きなければならないことだから。

明日は、想像できる。あさっても。一週間後もあると思う。二週間後は、あると思うけど、どんなふうかはちょっと想像できない。一か月後は?冬は?それはほんとにわからない。では、一年後は?生きているとは思うけど、どんなふうにかは全然わからない。でもたぶん生きてる。
では三年後は?と、考えてみると、もうすでにぞっとしてしまう。わたしは三年後も生きていたらどうしよう。三年後も生きていて、その三年後を思ってぞっとしながら生きているんだとしたらどうしよう。そうやってそれがずっと続いていくのはどうしよう。おそろしい。
どうしてみんな生きていられるんだろう?それが不思議。わたしは、こんなにたくさんの人がいて、こんなにたくさんのひとが生き続けていくのがわからない。どうしてみんな生きていられるんだろう?なにがあって、生きていられるんだろう?
そういう疑問を一日ずつ積み重ねていって、いつの間にか年をとっているのもおそろしい。何にも解決しないまま、二酸化炭素を吐きだして、ごはんをたべて排泄をして、笑ったりして、悪いことなんてしてないみたいな顔でしぬのだとしたら、そんなの、ない。

ぞっとしながら、知らないふりをして、とりあえずを生きている。誰かの意見はしらない。人は生まれたら、死ぬまで生きているのはみんな同じで、そのことにぞうっとする。それは恐ろしく不平等なことだ。どうして世の中に幸と不幸が生まれるのかって、その圧倒的な不平等によるところが大きいと思う。
考えてると、ぞっと、するので、もう寝ようとおもう。


散文(批評随筆小説等) 三年後は? Copyright はるな 2010-09-17 15:08:22
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