「宗教のための宗教とは」(5)
生田 稔

「宗教のための宗教とは」

宗教が人のためになるかならないかについて主に論じてきたが。私自身45年の間宗教者として働いてきてそして33歳の時自分の脳中の幻で、神と自称するものに出会った。彼は神とはいうのだが、考えてみれば何を私にして呉れたかぼんやりして理解しがたい。長い論争が続いた。そして彼の言うことは、嘘が多い。
 その長い論争は、33歳から75歳までの闘いだった。その神と称するものは途中でサタンであると言い出した。そしてさまざまの苦しみの試練を与えだした。夕べ最後に自分は決して神ではなく悪魔サタンである言いきるので、ここに彼についての結論として。
 神については世界や宇宙には、理神という完全に合理的で愛があり、悪意が無く善良なことのみを愛する。そんな神はいる。夕べ論争に結末をつけ、風呂に入った。ふろにつかるとさっきまでのサタンとの論争の不快さがしみじみ消え温かい自然の愛に浸った。人は目に見える姿や声を出す霊者はいてもそれは神ではなく、目に見えない大自然そして大宇宙を律する法則を支配している全能の神がおられる。聖書に出てくる神や御使いこのような者達は確かにいるのだが、たとえで言うならば、飛ぶことのできる鳥のような存在、つまりバードマンのようなものである。彼らはなぜ自分たちが飛べるのか、何か奇跡のようなものを行えるのか、そのメカニズムを知らない。
 ちょうど人間が自然を支配している神を認めないように、彼らも無神論に支配されている。自分たちより大きい存在を認めようとはしない。人は科学を用いて現代は物質文明の最高潮である。
 もし神を認め自分以外の動物植物あらゆる生き物を心から愛し大切にし、例えば赤血球白血球のようなものでも無視しないで彼らも意志や個性を持っていることを認め、思いを彼らにも向けてあげるべきではないだろうか。精子のことを思うとぞっとする。私たちも赤血球やそんな類のものだったのではないか。自然から良いものを刈り取ろう。麻薬や煙草は遺伝子操作によって、良いものに育てることは可能ではないか。牛乳からクローン牛のできるのに煙草や麻薬の品種改良が遅れているのは、商業的理由があるのではないか。
 問題の性欲だが、これは学問を愛し全て理知的なものを楽しみとするようにすれば、かならず節制できる。性の享楽が高まりはびこるのは滅びとなる。性をますます開放的にするならば、必ず人類は自尊心や秩序や清さを失い滅びるであろう。結婚や相続は無意味となり、各組織は崩壊する。


散文(批評随筆小説等) 「宗教のための宗教とは」(5) Copyright 生田 稔 2010-09-13 10:03:47
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