貧乏人は魂を売れ!
(罧原堤)

 汚い暖炉の横にめがねを置いて彼は手でこめかみを押さえた。何度も激しい頭痛が彼を襲っていた。
「フォードル。目を開けろ」
 膝をつき、半目で床の上を見ていたドストエフスキーの視界に獣のような足が現れていた。青い足で衣類を何もつけていないその悪魔は三叉鉾で地面をトントン叩いている。むき出しの太もも、脛に鉄針のような長い毛がビョンビョン跳ね伸びている。ドストエフスキーが首を心持ち上に持ち上げると、胸糞が悪くなるような顔をした悪魔と目が合った。祭りの露店に売ってあるお多福のような面構えだった。黴菌らしく触角が二本出ていて、顔色は青白い。
「どうだい? 俺と契約を結ばないか? お前さえ良ければな。mu、hyuhyuhyuhyu。お前を世界一の大作家にしてやろう、だがお前が死んだ後には地獄に連れてくぞ」
 ドストエフスキーの脳が軽くなった。鬱積していた気分が晴れやかになり、希望が灯った。今の今まで彼を苦しめていた深い憂愁がもはや消え去っていた。
 悪魔はドストエフスキーの顔が晴れやかになったのを見て取ると、勝ち誇ったかのように笑顔を見せた。
「どうするのだ? ホメロスやゲーテなどもはや忘れ去られてしまうぞ。お前こそ人類史上最高の作家になるのだ。未来永劫お前以上の作家は出てこないのだぞ。この地上に名声を残せばそれで満足であろう。もはや何を望むのだ? 躊躇うことなどない、ただ一言俺と契約したいと言えばいいのだ」
「う……う、う……、俺は……あなたと、……」だがしかし、ドストエフスキーもなかなか理性に打ち勝てないでいた。「ああ……、なぜあなたは俺にそんなことを薦めるのだ? ……なぜ他の奴ではなく俺に……」
 悪魔はmuhuhuといやらしく微笑んだ。
「buhaha! お前は二番目だ! トルストイのとこに最初に行ったんだがあっさり断られてしまったんでな、情けないことだが、あいつにいくら言っても無駄だと分かったのだよ。それでNO.2のお前のところに来たというわけさ!」
「NO.2……、このおれがトルストイ以下だと言うのか」ドストエフスキーの眉間に深い皺が刻まれた。
「当たり前だろうが! gyahahahaha、お前とトルストイでは比較にもならんわ! 本気であいつより上だと思っていたのかお前は? gyukyukyu、とんでもない自惚れ野郎だなまったく! さあどうするのだ? 俺と手を組めばトルストイの才能も上回れるのだぞ! あいつに勝ちたくないのか?」
「俺は今でも、トルストイより優れている……、俺の才能がトルストイに負けていると思い込んでいるお前と契約などしようものならどんな大作家にされるか分からないな。おおかたトルストイとホメロスでも足し合わせたような味気ない大作ばかい書く男にでもするつもりなのだろう?」
「gya、gya、この男には参ったわ! お前の書いたもののどこがトルストイに勝っているのだ? kyakyakya、あいつのように無数の物語をうまく錯綜させるだけの天性のストーリングテリングの能力がお前にあるとでも言うのかよ? kikiki、場面と場面を有機的につなぐ神業のようなテクニックがお前にあるとでも? お前がしていることはただ奇妙な人物や、狂人や、新聞から切り取ったセンセーショナルな事件や、残忍な描写などして低級な読者を騙しているだけじゃないかよ、お前にできることはせいぜいそれくらいなんだよ。俺はお前を本物の作家にしてやろうというのだ。俺と契約すればいい。ただそれだけのことさ」
 それから悪魔は甲高い声でmyumyumyuとずっと呟いていた。何かの呪文なのだろうか、ドストエフスキーの頭にそんな考えがよぎり、悪魔と契約する決断できかねた。何も考えられなかった。
「どうするのだ? myumyumyu、早く決めろ、もう消え去るぞ、そうすればもうお前は二度と俺と契約することはできないのだぞ。後で後悔しても知らんぞ!」
 ドストエフスキーはとっさに悪魔の足に縋りついた。
「待ってくれ! わかった。契約する! だから俺を何千年も世界に君臨できるほどの大作家にしてくれ!」
 悪魔は満足げに頷くと、「よし! お前の魂は俺が預かっておこう!」そう叫び、三叉鉾をドストエフスキーの額に突き刺した。
 ぐはぁ、と一声残し、ドストエフスキーは血まみれになり床に倒れふした。
 この日からわずか数年の間に彼は五大長編と呼ばれる傑作を次々に書き、天才の名をほしいままにした。今は地獄にいるらしい。


自由詩 貧乏人は魂を売れ! Copyright (罧原堤) 2010-09-05 17:06:53
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