チワワみたいに小さくて
(罧原堤)

 脳がねばっとして、何も手につかない。床には数日前に嘔吐したウィスキーとその日に食っていた食べ物が、吐き散らかされたままで、悪臭を放ち、部屋から抜け出るとき踏むと足に粘りついた。ただ拭きとればいいだけのことすら、する気にならなかった。どうでもよくなっていた。何をやったら自分の人生に光が差し込んでくる行為なのかがわからなかった。少しずつ自分の進むべき道がわからなくなってしまっていっていた。半開きのドアから隣室の天井が見える。僕がこの家に引っ越してきたのは、そうだな、もう6年にはなる、その時の天井と今みえている天井は同じ、そうだった、昔はあの天井の下で僕は寝起きしていた、6年前、あの頃の僕は人とまったく話せなかった。本屋とかで、『カバーしますか?』と聞かれても、緊張して口が開かずにただ俯いたり、首を振ったり、そんなんだった。ブックオフに行って買いたい本があっても、『会員カードはお持ちでしょうか?』と訊ねられるのが苦痛で何時間もレジに行くのをためらったりしてた。でも今はそんなことは余裕だ。笑顔で対応できる。真夜中に気が狂って絶望して大声で喚きながら外に飛び出たりしてた。でも今は理性で抑えられる。でも、鬱屈した気分に襲われることは変わりない。そう、僕はもう狂えない。叫べない。ただ苦しみを苦しみとして受けとめているだけ。希望もなしに。ほらここはこんなにもうす汚れているんだ。
 僕はふらふらと街路を歩き始めていた。何か救いはないのかと、迷い苦しみながら。疲れていた。何が大切なことなのかわからなかった。頭痛がしていた。息をするのもやっとだった。だけど、だからこそ、どこかへ行きたくてしかたがなかった。あの道を曲がれば救いがあるかもしれない、あの道をずっと歩き続けていれば不思議な出会いがあるかも知れない。自身にそう言い聞かせて歩き続けていた。が、こんな状態でも脳はけっこう冷静なものだ。(そんな救いなどはないに決まっている)と、わかっていた。川が流れていた。僕は、コンクリートのタイルを踏みしめ、転げ落ちてしまわないように少し注意しながら、河岸を歩いて、降っていたが、橋の真下にくるとそこに座り込んだ。しばらくそこに座りつづけ川面を眺めているといくぶん気分も落ち着いてきた。川面がキラキラと輝いていた。橋の下は何かの金属のバネのようなものが垂れ下がっていて、空き缶や古新聞など捨てられたままで、それらを見ていると、ここが自分の居場所のような気がしてならなかった。体がフッと軽くなったようだった。ここが僕の居場所なのか、もう僕の部屋は、あそこは、違う。自分の部屋にいても倦怠感や退屈感に見舞われるから、あそこはもう僕の居場所じゃないんだろう。どこかの広場や人ごみに揉まれているより僕はやっぱりこういうところに一人でいるのが似合ってるんだろう。ガキの頃からそんな奴だった、そんな変な奴だった。背後の壁に何か落書きが書いてあったが読み取れなかった。しばらく放心していたと思う。5、6分ぐらい。それから僕はむしょうに走りたくなった。全力疾走して、自分の部屋まで戻って、必要なものをここまで持ってきたくなった。だがその衝動は大きなものではない。ただの思いつきのようなもので、ただ、だんだん肌寒くなってくる、寒さに、上着を取りに戻ろうか、(……それとも)、と、ズボンのポケットをまさぐり財布を持ってきているのに気づくと、そのへんで酒でも買おうか、どうするか、思案しだした。酒を飲んで自分を燃え上がらせればいい。体から熱が発するはずだ。だがまだ我慢できる。鴨が泳いでいる。鴨だって我慢しているんだ。限界まで我慢してからでいい。メダカが泳ぐ入り江みたいなとこまで降りていき、「俺がダメなやつだから」と何度も呟いていた。
 風がビュウビュウ吹きこんできて、もうきつい、しゃがみこんでしまい、どうしていいかわからないまま、
(とにかく、酒でも買いに行くか、そろそろ)と、思い、腰を上げかけたときだった。真横に狂犬がいた。大きな口をあけて、もはやそれは犬ではなかった。霊魂、いやマンガ、アニメ、そんな感じだ。目が顔の割合に反してでかく、顔から飛び出てつりあがっていて、頬はこけていてムンクの『叫び』のようだった。目は白く輝き、顔面は青白い光を発していた。最初、噛みついてくるかと恐怖した。だけども、その犬は僕に擦り寄ってきて、おとなしくしている。そして先ほどとはまったく違い、目が異様なほどたれていて泥まみれで、哀れさをもよおしたぐらいだった。そしてしばらくそのままでいた。僕は悲しさにとらわれていた。それで何かばかげたことばかり頭に浮かんでは消えていった。(僕がもしムンクみたいに目立つ絵が描ける画家だったらどうしてただろう。たぶん絵を描いていただろう。ただ描き続けていただろう。絵ならどこでも描ける、そのへんの待合室などでも、それでその絵を見てくれる人はいつだっているだろう。すぐに賞賛してくれるだろう)だから思う、(僕がうまい、すごい絵描きだったらどんなに幸せだっただろうか、すぐにみんなが僕の価値に気づいて、才能に気づいて、賞賛してくれるんだから、でもそれは機知でもいいのかも知れない、でも少しの人間関係に躓いて逆に嫉妬の対象になったりするかも知れないから、やっぱり画家の才能がいいな、それか容姿が優れてるとか、でもそれはそれで嫉妬の対象になったりするかもしれないから、モテたってしかたないし、やっぱ画家の才能があったらよかったのに……)
 それにしても痩せこけた犬だ。僕は立ち上がると、何か犬に食わせてやろうと、食べ物屋を探し始めた。犬はくっ付いてきた。明かりのある方向へと、街へと、向かっていると、小さなケーキ屋があった。道々、その店を観察していると、まだ店員が働いていて、客も何人かいて、椅子に座りこんでいるのが窓越しに窺えた。
 店内に入ろうとドアを開けたとき、犬も一緒になって入り込もうとしたので僕は足で通せんぼし、店内に入った。犬を連れ込めば店の人が迷惑するだろうと、思ったから。ショーケースにいろんなケーキが並べられてあった。僕は黙り込んでいろいろ見ていた。苺の周りがショートクリームでいっぱいのやつや、光沢があるチョコレートケーキ、薄切りのメロンがたくさん添えられたケーキ、僕は、(犬はチーズが好きだよな)と、思い、かわいい若い娘の店員の方を向いて、
「チーズケーキを4個」と言うと、椅子に腰掛けていた女子高生が、
「ヒロくん泣いてるよ」と言ってきた。
「ヒロくん?」
「あの犬だよ。あの犬、泣くんだよ、目からポロポロ涙をこぼして、ほら泣いてるでしょ」と、女子高生は窓ごしにその犬を指差した。ヒロくんの瞳から大粒の涙が流れて、地面に落ちていた。
 僕はいそいでケーキを受け取ると、外に飛び出て、チーズケーキをヒロくんの前に差し出した。
「ヒロくん」と呼ばれると犬はニコっとどこか悲しげな笑みを浮かべながらペロッとケーキをたいらげてくれた。ああ、僕が店を出てきたとき、まだ残ってくれていたから良かったようなものを。もし、いなくなってたら一生後悔しただろう。足で邪険に扱ったりして。もう、そんなことはしない。一緒に店の中に入ればよかったんだ。それで店員に注意されれば、汚いものを見る目で見られたら、入ってくるな呼ばわりされたら、一緒に追い出されれば良かったんだ。ちょっとしたごたごたに過ぎない。たったそれだけのことだったんだ。「俺の犬だ、俺が守る」って言えばいいだけのことだったんだ。後ろ指さされて、もたつこうとと、くよくよしないでさ、まごついて戸惑ってもいい、だけど、死に物狂いで守ってやるべきだった。立ち上がれないほど落ち込むなんてことにはならなかったはずだ、そうなったとしても。些細なことだ。僕は、他人の視線を気にし過ぎて大事なものを失うとこだった。ものごとは少しずつしか進まない。少しずつ努力していく。改善していく。それが徒労に終わろうとも。とにかく前向きに。元気を出して。いこう。赦し赦しあう関係でいく。
 僕らは歩き出した。心地よい風が吹き出す中を。黄昏てってく感じだった。


自由詩 チワワみたいに小さくて Copyright (罧原堤) 2010-09-05 16:07:08
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