音のない洞窟
吉岡ペペロ
ランチのあとヨシミを会社のビルディングまで送り子供のように素っけなく別れた
東京のよく知らない道をヨシミに教えてもらったとおりシンゴは帰った
歩きながら会社からのメールを覗いた
むかし夏の日のさなか、ケイタイのディスプレーは真っ黒になってしまって見えなかった
いまじゃ虹色がかったメタリック系の液晶に文字がちゃんと映っている
ほどけた風が吹いている
ひと月まえヨシミと再会した公園のベンチが見えて来た
木漏れ日がまだつよい
夏の終わりの木々たちがセミの声で鳴いている
へえ、ここにつながるんだ、
シンゴは発見をひとつ喜びそこに腰かけた
きのう夜ヨシミの部屋で聞いた話がシンゴにタバコを三本吸わせた
会社名の入っていないクルマが数珠繋ぎになって歩道沿いにアイドリングしている
どれもが木陰の陽射しに高級そうに光っている
運転席のシートはみな後ろに倒されていてクルマには誰もいないような感じもした
みんな音のない洞窟にいるんかなあ、
シンゴは鼻の脇の汗を指でぬぐいながらそうひとりごちてじぶんは今セミの声のなかにいると思った
ランチにでるまえシャワーを浴びながらオナニーを試みたけれど揉めば揉むほど硬度がなくなっていったのを思い出した
そしてきのうの夜を思い出していた
ヨシミの胸に手を置いて眠った
胸が痛いのだという
シンゴの胸も痛かった
じんじんとした違和感がはりついたままだった
シンゴは窓に見える月に明日この窓を磨いてやろうと小さく誓った
そしてさっきまでファドのCDを聴きながら聞いていたヨシミの結婚ばなしをたどるのだった
男の歌うファドだった
シンゴはさいしょからリピートで設定していた
曲が終わっては始まるのを聴きながらシンゴはヨシミの覚悟や逡巡を聞いていた
目の前のテーブルのうえの夾雑物が薄皮がはがれるように少しずつ姿をかえていった
月を見つめてそれを思い出していた
シンゴの好きなかたちで寝ていいよ、
手はいいのか、
だめ、
ヨシミがシンゴの手をあらためて胸におきなおした
小指がボタンのようになった乳首にさわった
シンゴは欲情を窓から見えるちいさな月のようだと思った
しぜんって、オール有り!ってことだと思う、
イガタアヤコの言葉がとつぜん浮かんだ
オール有り!・・・か、
シンゴがふっと笑うとヨシミがそれを尋ねてきた
おまえといると楽しいよ、
あたしたちお似合いだもんね、
さっきのファドが幻のように聴こえていた
男の歌うファドは胸の痛みのリズムにちょうど合うようだった
幻にもその曲がリピートでながれていた
パトカーの音でシンゴはハッとなりあたりを見回した
いつのまにか目の前にいたアイドリング中のクルマは減ってセミの音だけが木漏れ日に降っていた
けれどシンゴはきのうの夜感じた感覚のなかにいた
そして音楽を耳に思い出していた
ヨシミの声を口に手をあてて聞いていた
シンゴのとなりに体育ずわりをしてヨシミが覚悟や逡巡をしゃべり続けていた
男の歌うファドが繰り返しながれていた
ああ、そうなのか、
シンゴにはなにがそうなのか、なにがそうではないのか分からなかった
ああ、そうなのか、シンゴは不可思議な平穏のなかにいた
シンゴはある感覚のなかにいた
音楽は始まっては終わり終わっては始まりながれ続けていた
木漏れ日がさっきより濃い黄色になっていた
ほどけた風が吹いていた
木々のセミの声のなかにいた
音楽が鳴りやむたびシンゴは音のない洞窟からからだごと出られたような気がした