真夜中の箱の中
ホロウ・シカエルボク




ひかりの加減を気にし過ぎるとき、音楽の音量を気にし過ぎるとき、階下の物音を気にし過ぎるとき、窓の外のトラックのバック警告音を気にし過ぎるとき、しんとしたノイズを求めて、しんとしたノイズだけを求めて、真夜中のことを思う、まだなにも動き出さない真夜中のことを、筋肉と神経と内臓がぜんぶ死んでいて、脳髄だけがらんらんとまばゆい何かを放出し続けている時間のこと、そうだよ、地球創世の雄々しく繊細な鼓動はすべて、真夜中のなかでたえず繰り返されているんだ、日常の中で疲労している、拾うものが何もない日常、かといって路上ばかりを見続けて歩いているのかといえばけっしてそんなことはなく、あれやこれやと目移りしながら、あれやこれやと目移りしながら、なにかをしばし眺めていたという腹をそこそこふくらませてくれそうなそんなシチュエーションを探している、おれは満足しない、おれは決して満足することがない、こんな人生にどんな着地点ものぞめないことはそこそこ理解している、そこそこ、そこそこ、そこそこ理解しながらいったいどんな上等な着地点を求めている、そこそこ、そこそこ、そこそこ理解してばかりを繰り返しながら、貧相な合唱団の混声四部合唱のその半数が音を外しまくったコーラスをオールリプレイで聞き続けているみたいな気分になる、そんな気分がなにかましなスタイルを提示してくれるわけはなく、それはすべてそこそこの加減に問題があるのだ、そこそこの加減に問題がある、それがニュートラルだとか頭の中で考えているんだろう、きっと、自分の脳みその中で起こっていることを推測なんてカテゴリーで思考していいのかなんてちょっと気になることはなるけれど、それはそこそこにとどめておけばべつに長いこと引っかかってはなれないような事柄というほどのものでもない、執着しないことはけっこう大事だ、執着しないことは…執着しないことを理解して習得したとき、そこに初めて継続という赤子が生まれるのだ、それはそこに落ちた石のようにそこにあるものと関わり続けるということだ、理解は、常に、水のように流れながらそばにある、一度拾い上げた理解を剥製にしてローテーブルの上に陳列するような真似だけはけっしてしてはならない、それは自分をどこにも動けなくするだけのことだ、自分を動けなくして…じたばたともがくことだけをストイックだと呼ぶことに陶酔するような真似だけはしてはならない、それはアダルト・ムービーで自分の股間を大写しにさせることを容認する女優がやっていることと同じことだ、いくら喘ぎ声が高く澄んでいてきれいでも、万人に聞かせて素敵ねと言ってもらえるようなものからはほど遠い―といったところで―万人、なんてものにはたして意味はあるのだろうか?ポップ・カルチャーの観客という観点から言うならば、それはもちろん重要なアイコンには違いない、だけどはたして、すべての万人はその観客になりうるのか?答えはノーだ、答えはたぶんノ―だ、すべての万人が観客として適当というものではない、それならば、なんだ?ポップ・カルチャーというものはいったいなんだ?はたまた、それ以外のカルチャーとは?もっと聞こう、カルチャーにおいて観客というものは、本当に必要なのか?それは本当に、重要で絶対な存在なのか?俺たちは他のどんな感覚とも交わることのないたった一個の個体だ、たった一個の個性であり、それだけのポテンシャルが必要とされてしかるべきいきものだ、だがしかし、それは他のなにかと自分、という対比のもとに生まれるエクスキューズではない、それはあくまで一個の個体の違う層の中だけで展開されるものであるべきだ、そもそもそれ以外に、的確な方法などハナからありはしないのだから…エクスキューズという言い方が気に入らないって?おれたちが口にするものがそれでなくて他になんだというのだ、おれが時々こうして書き連ねているものが…かまわないのだ、それはそれでぜんぜん構いはしないのだ、そう呼んでおく方が健全だと思わなくもない、そう思わないか?適度なライン―例えば適度な温度に設定されたエアコンみたいなものを、不必要なものだと感じる連中も居るね、例えばさっき言った、自分の股間を大写しにして欲しがっているみたいな連中さ…だけどね、すべての出来事にはかならずこことここの間で展開されることがいちばん良いことだと感じられるラインが絶対に存在する、それはニュートラルな位置で眺めていなければけっして見つけられないものだぜ、判るね、判るね、判るね?本当の意味でストイックとは、息切れしない速度を手に入れるということでもあるのさ、それが速いとか遅いとかいうことではなくてね、速度が一定である必要はないということ…オフロードみたいなものさ、同じ速度で飛ばし続けることに美学を感じるようなやつらは…所詮整地された場所でしかエンジンを吹かすことを考えられないというわけだ、さまざまな物音を気にし過ぎるとき、おれは耳をふさぐよりはそれらの音に何の意味も持たせない方法を考えてみる、すると、そうしているうちにおれは真夜中の、しんとしたノイズの中にどっぷりと浸かっているのさ…もちろんそれはただ、いくつかの時間がゆっくりと流れて行った、だけのことなのかもしれないけれどね。





自由詩 真夜中の箱の中 Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-08-11 22:52:50
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