お化け煙突とボロアパート
真島正人
お化け煙突の話をしようとすると
いつも決まって
口がこわばる
上手く話せるかどうかが
わからなくなって
話す気力が失せてしまう
その日は女のほうから
「ほら、あそこにいつも見えるじゃない」
と口に出してきて
だから
心が楽になった
「あそこにいつも見える、あれ。あそこにあるの」
「知ってる。見えてる」
「あれの根元を見に行ったことはあるの?」
「ないよ。君は?」
「もちろんないわ」
その煙突は、女のアパートの窓越しにいつも見えていて
でもどこに位置しているのかよくわからない
町は路地が
次から次へと継ぎ足されていくので
複雑に入り組んでいて
『だいたいあのあたり』が
『正確にどこ』であるのかを
抹消してしまった
煙突に限らず
向こうに見える不自然な物干し竿
ガラスの曇ったビルディングも
その根元がどこに
食いついているのかなど
わからないのだが
ことさらにここから目立つのが
その細長い煙突なので
とりあえず
気になっている
根元が見えない
どこにあるのかわからない
でもあるからお化け
僕は仮にそれをそう呼んでいる
煙突からは定期的に
白い煙が吐き出され
抜けるような青い空に
近づくにつれて薄まっていく
煙もまた
お化けのようなもので
目に見えなくなる
だが
それは消えてなくなったわけではないのだ
たぶんあの煙は
大気中に混じり
かなり遠くまで流れている
僕たちの肺にも
必ず吸い込まれているだろう
女は
アパートの駐車場に
古い車を停めている
車の中には
「たくさんの思い出が積んである」
という
「薄汚い段ボール箱にでもしまいこんで? バックシートに?」
と僕が冗談交じりに
尋ねると
女は真剣に悲しそうな目で睨む
悪かったよ、
よくわからないけれど
僕にだって
思い出はたくさんある
断片ごとの
人間味を失った
機械のようにカチコチに固まった
思い出が
思い出の重さを
口から出てくる言葉の重さと
比較することができない
どちらも
形を持たないものなのに
なぜか『ある』とわかる
目で見えないものを
「確かにある」
「確かにあった」
と確信できるのはなぜだろう
僕は子供の頃から
それが気になって仕方がなかった
誰も答えはくれない
「キミと話していると、英語で話しているみたいよ」
と女がいう
「まるで、苦手な、でも一度習ったから、なんとかわかる言語を使って話している気分」
「ふぅん」
と僕
「それは言葉の断片とか、単語しか、ろくに頭に入ってこないってこと?」
「わからないけど」
でも、と彼女は続けて
「年上の人を、キミって呼ぶのは、あたし初めてだわ」
女のほうが、会話が
ジャンプしている
一時間ほどして
互いに退屈になり
僕は女のスカートを
ねだるようにいじる
そこになにか
『重たいもの』
が隠されているような気がして
下着の中から
『重たいもの』が
はみだしてくるような気がして
「なぁ、いいだろう」
とか
「なんでもないんだよ」
とか
いろいろなことを
口に出してみる
女は
嘘っぽく恥らったり
本気で嫌な顔をしたりして
僕のことを
幼児みたいだという
僕は幼稚園児かもしれない
僕が今
女の下着の中に探したいのは
淫の気配ではなく
古い記憶
それも
僕のものでも
女のものでもなく
ただのそこにある
沁みのような記憶だ
誰かが置き忘れ
たまたまその女の
卑猥な部分に縫い付けられた
行き場のない記憶
どこかに飛んでいきたくて
うずうずとしている
はみだしてくるような記憶
それが
人の隠された裂け目から
産み出されてぽつぽつと
滴り落ちてこないかと
そんなことを
母乳を求める、
乳離れでききれていない
3歳児のように
待ち望んでいる
僕はほとんどの場合そうしてきた
女になにあてどのないものを求め、
「無い」
と断られてきた
そんなことは
母親の乳の頃から
そうだ
何かが
飛び出てくる場所に
興味がある
そこから
甘い蜜ではない
古い記憶が
はみだしてこないかな
と待っている
ねじの止まった時計
小学校の教室の机
テニスラケット
しけったビスケット
そんなものが
女のどこかから
モノクロームの
フィルムの質感を伴って
ふるい落ちてこないだろうかと
手探りで
まさぐる
煙突なんか
消えてなくなればいい
町中全部入れ替わればいい
ここにいることが
なくなればいい……
とかつぶやいたりしながら
いまから
そこまでと
ここから
そこまでの距離が
均一感を失う
場所と時間が
反比例を引き起こし
僕は眩暈がする
それから
せみの鳴き声が
あまりにも耳障りで
目が覚めた
女は
部屋を出ている
買い物か何か
そういった
生活の腐臭のする
ささやかな雑用に携えられて……
僕の体は
寝ているあいだに
かいた汗でびっしょりだ
窓からは
相変わらずの
煙突が見えるのだろう
確かめたくなって
僕は
重たい体を起こす