鏡のこと
はるな
わたしの一日は、時間によってではなくて、行為によって終わる。
眠りにつくときが本当の一日の終わりなのだけど(だから一日が24時間で終わらないことがままある)、それはまあ誰にでも当てはまることだから除外するとして。
一日を終える前には、湯船につかったり日記をかいたりするが、鏡をみることも多い。自分がどういう顔かたちをしているのかをくっと観察し、点検する。しわやたるみや、眉毛の濃さなどはちいさな問題で、鏡のなかにあるものが間違いなくわたしであるという点が重要だ。
思春期には、ほかの人々がそうするように、わたしもいまよりももっと多くの時間を鏡をみることにさいていた。食事をするときや、読書をするときにさえ目の前に鏡を置いた。そうして、そのときのわたしは、自分がどんな表情をしているのかさえよくわかっていなかったのだ。
いまでは、わたしは鏡を「自分」としてではなくて、「他人からみた自分がうつるもの」として見ることもできる。乳房の色や筋肉のかたちを、ひとから見て好もしいかどうか考えをめぐらせたりもする。
鏡はもしかしたらいい例になるかもしれない、物事がときにはそう単純ではないことに関して。そこにうつっているものが、「自分」とはすこし違っているという点などが。そしてそのすこし違っている自分に気付いたときに映る自分は、それともまたすこし違っている。物事がときにはそう単純でないということは、つまり、物事のあいだには齟齬が生じるということかもしれない。
しれない、というのは、わたしは恋人と一日を終えるときにはあまり鏡を見なくてもいいのだ。恋人は眠る直前で安心のような顔をする。そこに不安がない。なにもたしかめる必要がない。わたしたちはそこにいて、お互いが別々の人間だということをわかりながら、でも安心している。そのような一日の終わりを、ひとりでも迎えることができるなら、どんなにいいかしら。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
日々のこと