ポエム・現代詩
非在の虹

かつて、ポエムvs現代詩という対立がネット上でありました。
僕がネットに詩を投稿するようになったのは、2002年のことですから8年も前のことです。
僕自身の印象では、ポエムと現代詩がお互いに競い合う、というより排除し合っているようにも思えました。
事実はどうであったか。
それはもっと以前からネットを詩の発表の場にしてきた人たちこそ詳しいことでしょう。

その頃からわかりづらいことは、なぜポエムと現代詩が対立項になるのか、ということでした。
そもそもそれらの定義がどうなっているのか。
僕自身がはっきり解答を求めぬままに(それがいけないのですが)ずるずると8年が過ぎ、たまにその対立を耳にすると、なにか溜飲の下がらぬ思いがしたものです。

さて、「現代詩」と対置する言葉を「ポエム」とするのはネットの中だけではないでしょうか。
どうも活字の世界では聞いたことがないような気がします。
そうだとすればネット独自の言葉の使い方、定義を持っていることになり、それはネットの閉鎖性として自らを疎外しているようで、残念なことではないでしょうか。

そこで、分かりやすい定義を、活字文化とも共有できる定義が欲しいのです。
僕の言いたいことはこれだけなのですが、僕自身が漠然と考えている定義(これは本当に漠然とですが)をつらつら書いてみます。

まず、ポエムとは何か。これを決めてしまうと都合がいいようですが、案外難しいことかもしれません。
なぜならポエムは蔑称として使われることもあり、
「あなたの作品はポエムだね」
と言ったとたん、相手の気を悪くさせて喧嘩にもなりかねない。
だから、暑さの中で茹で上がった脳みそで考えた、ポエム定義ということですが。

ポエム : 「安直な抒情詩」として、 さらに細分化され 貧困労働安直抒情詩や自己体験安直抒情詩、雪月花安直抒情詩、恋愛安直抒情詩・・・・などもあり。
まだまだ考えられそうですが、こんな風です。

さて現代詩ですが、これは「難解な実験詩」と考えて、親しみやすさでポエムと比較しようとするように思えます。
詩の商業雑誌「現代詩手帳」が実験詩の採り上げに積極的であることから、現代詩=実験詩という発想が出てきたのかも知れません。
しかし「現代」という時間、歴を表す単語はどう解釈すればいいのか。
やはり近代詩に対置する言葉として、現代詩を考えるのが妥当でしょう。

近代詩は明治15年(1882)に刊行された「新体詩抄」から始まるとして、現代詩はいつから始まったのか。
詩人の大岡信は口語自由詩の登場からと考えているようです(『現代詩人論』)
朔太郎の『月に吠える』大正6年(1917)からでしょうか。
そうすると光太郎も三好達治も宮沢賢治も書いた作品は現代詩だというわけです。
その辺は、歴史か国語の教科書どおりでいいのかも知れません。

いずれにせよ、ネットの詩がけっして文学の孤児ではないことのためにも、ポエム・現代詩について新しい認識が欲しいのです。


散文(批評随筆小説等) ポエム・現代詩 Copyright 非在の虹 2010-08-06 09:53:40
notebook Home 戻る