シェドゥムのための習作
有末
不快な夢を見たから仕方がない、とシェドゥムは自分に言い聞かせて酷い有り様の鏡を眺めた。そして自らの寝不足を示すその悲惨な顔をではなく、閉め忘れたドアの先の暗がりが映り込んだタブローを凝視し始める。それは彼のいまだかつて成功したことのない呪文の詠唱であり、夢よりも意のままになるはずの記憶への没入であり、深刻な確認作業だった。彼は数えていく。降順に数えていく。いくつかの記憶に残る出来事をその数字に結びつけて。
やがて、右目は画が動いたことを彼に伝える。乾いた左目がわずかに濡れ、懐疑主義を気取る右眉が鷹揚に上昇し、唇はどちらに従うべきかを決めかねて、中立を決め込む。そして芝居は始まる。
なにかがまだあの先に隠されているなら、きっと夢見は悪くなかったのだ。よってあそこにはただクローゼットルームに続く閉鎖的な廊下があるだけだ。右眉が言い聞かせるように断定すると、左目はなにかそれを手酷く否定するような事実を期待して従僕にレバーをあげさせる。右眉はそれを止めはしない。くだらないことだと肩をすくめるだけだ。唇は時勢を読むも左目を思うがゆえに沈黙を守りやがて訪れる落胆、カツ、とハエ叩きで獲物をしとめたときのような音のあとにやってくるあの慣れっこになった負荷に耐えんと緊張をする。そうして左目はただ光を深くし、右眉は気まずそうにそっと彼の相棒に並ぶ。かくしてタブローはまた気まずいバランスを保つ。いたたまれなくなった目を慈しむ優しい瞼が、睫毛に視界を掃かせるまで。そこにはなにかがあるがゆえに見えないのだとみなに言い聞かせるようにゆっくりと幕をおろす。そうすれば今度は本当の静寂がやってくる。それぞれに許される分だけ息をする静けさが。
彼の悪夢は恐ろしくはない。開け放された扉に拒まれつつ黄緑色のふんわりとしたドレスを着た少女の背中、不釣り合いなくらいに開いた背中を光らせ積み木のお城を作っている少女を凝視する少年を見る。ただそれだけのことだ。
シェドゥムはどこかの市民派の画家が似たような光景を描いていて、その色褪せたコピーが石の壁に囲まれたあの部屋になぜか貼りつけてあったことをよく覚えていた。それが決して少なくはない学友の夜の慰みになったことも、彼は覚えていた。そして酷くそのことに憤慨していたこと、そのせいだけではないけれどそれがきっかけで懲罰房に入れられたこと、教師から信頼を得たこと、その画が剥がされて捨てられたことなどを思い出す。その確かな記憶たちは悪夢の構成に不可欠な素材のほとんどを提供してくれていた。だからシェドゥムには二重以上の意味で悪夢だったのだ。めくってもめくっても、怖い理由が見つからない。
そして直接関係のない思い出ばかりをシェドゥムは引き当てる。たとえば少女の火葬のことだとか教師の目付きだとか。なんにせよ、そのどれもが彼には怖いものではないことが気味悪かった。
今日、シェドゥムが開いたのは優しくて明るい学友が敬虔に己の夜着の袖を引く場面で、それはシェドゥムの不快さを幾分か和らげる明快さを備えていた。彼は、カレルがしてくれたことを決して忘れないだろう。あの時に誓った忠節も含めて、忘れない。たとえカレルが後ろ姿の少女の後釜のことをしか覚えておらずとも。シェドゥムは自分がカレルに不釣り合いなほど大きな感謝と愛情を感じていると考えていたが、シンプルな微笑みの持ち主は自らに向けられる好意がどんなものであれ疑問など持たないものだ。ためにシェドゥムは彼を惜しみなく愛し続けることが出来たしこれからもそうなのだろう。
孤独でもなく不幸でもないあの時代にシェドゥムはなにを求めていたのか、画家が息子とその幼馴染みを描いたあの作品を、妹を見守る兄を描いた作品なのだと確信することの意味を、彼は新たに知ろうとした。そしてきっと幼い頃にはあの子がいたからだと彼は思い出すことにした。それ以来、彼はまた再び悪夢を観ることになったが、うなされるシェドゥムをゆする手が誰から誰のものに変わったのかという点については、おかしいくらいに注意を払わなかった。本当に彼が思い出したいのは、背中ではなく手だったというのに。
シェドゥムはいもしない妹を探し続けていると思っていた。それは見つかっては困る類の探し物で、また見つかるはずもないと彼は高をくくっていたから試みに探してみることができた。彼は消えてしまった彼女に自分のなにかを預けて、それがもう二度とは手に入らないのだと片付けた。だからそれを望みもせず、ただ懐かしむだけで満足であった。本当はどうなっているのか知っていた。はじめからなかった。
しかしある日とつぜん妹は現れた。シェドゥムが彼女に預けたものを携えて戸口に立っていた。あまりに驚いたので彼は右手でドアノブを握ったまま不躾に彼女を上から下までじっと見分してしまったうえ、彼女にいきなり左手で目隠しをした。背中ごしにシャルロの声が聞こえなかったら、きっといつまでだってそうしたまま観察してただろう。そんな風にしながら、シェドゥムは酸素の足りない頭でぐるぐると誰かに向かって約束をしていた。まだ今なら彼女は幻のままだから話しかけるのはやめる。でももし彼女が口を開いたらそれは仕方のないことだから受け入れる。
手が、誰のものかわからない手がシェドゥムの左目を一瞬、覆ったように思えた。その手のひらには大きな大きな目が変わらずに……。
結局、その美しい一枚絵に動きを与えたのはシェドゥムのでも彼女のでもなく、シャルロの声だった。全く想定していなかった第三者の闖入にまたもや反応が遅れたシェドゥムは、快活なシャルロの絶好の社交の口実となり、時間はまたゆっくりと流れ始める。
シェドゥムは彼女の名前を知り、彼女もまたシェドゥムの名前を知った。そしてそれ以外のこと、知りたいことも知りたくないことも何でもないことのように知った。それぞれに相応しい騒々しさで、調和は保たれ秘密は守られる。三人で囲んだこの小さなテーブルに置かれている腕はきっと12本、ないしは9本、そうシェドゥムは読んだ。果たしてそれが当たっているのか外れているのかは永遠に彼に明らかにされ得ない。シェドゥムはただその点については心から満足し、また納得して席についていた。
かつて少女だった女はいまや黄緑色のドレスを一着も持ってはいないという。もう1人の兄が好む赤いドレスをクローゼットにしまっているらしい。たぶん積木もしなければ床に座ったりもしないだろう。それでも、全てが昔のままであるかのように彼を見たし、思い出を共有する者にむけるあの暗号めいた仕方でもって小さくはにかんだのを左目は見逃さなかった。その認識にやぶさかでない、と右眉も相方と足並みを揃えて感嘆のポーズをとる。
突然あらわれた知己のような結末への道筋を歩むべきではないのだろうか。まだ間に合うかもしれない、自らの関与の欠落が自分の知らない場所で、知らない結果をもたらすのではないか。けれどそこに本質的な差はないのではないか。それにおいて自分がなせる役目といえば、ただ観ることなのだから。いつでも視線をやって、肯定も否定もせずに受け入れるだけ、淀まないものに杭を打っても流される。岸には上がれない。信仰のような敬虔さと真摯さでもっていつだってそのように勤めてきたのだ。でもその前に、少しでも君に埋め合わせが出来たら。夢は正しく悪夢になって、不自由に目を瞬いて天井を見る朝が来るのかも、しれない。そんな風にシェドゥムはまた、あと何度見送ることになるか解らない光る背中に言葉を投げた。収集家が大切な作品を慈しんで語りかけるような、努めて優しい感情だけを込めて。
シェドゥムは鏡をではなく、いまや秘密の隠れる場所のない廊下を見つめる。ついに唇は息を吐き、意味を付与された微かな振動がタブローを曇らせた。