まるでおだやかな宿命みたいに
ホロウ・シカエルボク






きちがいのきれいな歌声が
鞠のように転がる夜明けの街路
途切れた記憶が空気に触れて
朝露となってショーウィンドウでこと切れる
ぼくは眠れなかった
きちがいの歌声が聞こえたので
こうして出てきたのだ
あまり自慢出来ない衣服を身にまとって
はげしい雨の後の
世界はやさしいですか
かれはそんなうたを歌っていた
ぼくはそんなかれの音符に
よけいな記号を足さないように
気がけて一本違う通りを
てくてくと歩いていた
かれの声はきれいなテノールで
夜明けの街角によく似合った
きちがいだと判ったのは
きれい過ぎたせいかもしれない
ぼくは水たまりを踏みながら
寝ぼけた頭で聞いていた
はげしい雨のあとの
世界を気にかけてばかりいるそのうたを
それこそが音楽だなんてふうには思わなかったけれど
それもまた音楽なのだというふうに考えながら
まだ車のまばらな街角の空気は澄んでいて
ぼくは眠れなくてよかったと感じた
きれいな声のきちがいのうたがあり
雨はやんでいて
空は明るくなろうとしていて
それ以上のことがあるだろうか
それ以上のことが
なにか必要に感じるだろうか?
そんなことだけでいいのだ
幸運というものが
たとえばやすらかな眠りなんかと
ひきかえに得られるようなものなら
ぼくは空缶を踏んづける
だれも殺さなかった君主のように
ほこりといらだちの
両方をつま先に込めながら
最初の車が静寂を裂き
きちがいはうたを忘れ
頼りなげなハミングしか
そこには残らなかった
なのでぼくは
コンビニエンスストアに
立ち寄って
パンを買って
食べながら帰った
そうだ
記憶は




朝露に
変わってゆくのだ





自由詩 まるでおだやかな宿命みたいに Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-07-20 22:09:09
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