或る嘘つき女の生涯
木屋 亞万

勘違いしている人が多いのだが、「嘘つき」というのは本人の性格の悪さによるものではない。先天的なものもあれば、後天的なものもあるのだが、「嘘」に憑かれた人間が「嘘つき」になる。そもそも「嘘」というものは、常人の肉眼では見ることはできないものなのだが、ごく稀に「嘘」と対峙するものもいる。在る者は「目を魚のように泳がせてしまう水辺の生き物だった」というし、また在る者は「身軽にひょいひょい飛び回る鳥のような生き物だった」という。僕の伯母が言うには、「カワウソのような姿をした腹黒い獣」だという。
どの証言もなかなか信じられたものではないが、「嘘つき」の人間を見つけることは、「嘘」そのものを見るよりも実に容易い。誰の心にも大小の違いはあれども、「嘘」が住み着いているものである。しかし、「嘘」にどの程度憑かれているかは、人によって差がある。わたしの伯母は多くの人々にとって、「嘘つき」な人間だったようだ。彼女の人生はいつも「嘘」とともにあった。

祖母は伯母が生まれてくるときに、医者からこの子は男の子だと聞いていたらしい。しかし生まれてきてみれば、女の子だった。エコーで男の子を女の子と間違えることはたまにあるらしいのだが、その逆はめったにないと医者は本当に驚いていたそうだ。医者が驚くのも無理はない。医者は確かにエコーで胎児の男性器を確認したはずなのである。「あるものがないように見えることはあっても、ないものがあるように見えることはないだろう」と祖父も戸惑っていたそうだ。祖父母は伯母のために男物のベビー用品を揃えてしまっていたらしく、伯母の幼い頃の写真はどれも男の子のような姿で写っている。そして、その2年後に父が生まれたときには、伯母のお古を使ったというのだから、妙な話である。
出生時の性別間違いのせいかどうかはわからないが、伯母は「あきら」という名前だった。男の子のつもりで用意した名前をそのまま無理につけたのではないかと本人はいつも疑っていたが、男の子だったら父の「真一」が伯母の名前になっていたらしい。

伯母は僕が12歳のときに死んだ。ちょうど春休みの終わりで、僕はその二日前に携帯電話を買ってもらったところだった。その携帯電話に最初にかかってきたのが伯母の訃報だった。伯母と父のアドレスしか入っていない携帯電話が鳴って、どきどきしながら出たら父が「お父さんだ」と名乗り、僕よりも強張った声で「ねえさんがしんだ」と言ったのだ。僕は聞こえているのか聞こえていないのか、よくわからなくて何度も聞きなおした。父は大きな声ではっきりと「伯母さんが死んだ」と言い直した。言葉の意味はわかったが、それの意味する所がつまりどれだけ重大なことなのかはわからないまま電話を切った。
伯母は僕の初恋の人だった。嘘を身につけて歩いているような人だった。彼女は旅行好きで、イギリス、ドイツ、インド、マレーシア、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ロシア、アルゼンチンといった国へ行った話をしてくれた。彼女は旅行記をつけていて、そのページを捲りながらたくさんの国での思い出を語ってくれた。時には、そのときのお土産や写真なども見せてくれた。僕は彼女の隣に座って、彼女がにこにこ笑いながら昔の話をするのを聞いていた。彼女はとてもいい匂いがした。甘い花の匂い。手足は茎のようにすらりと長くて、肌は白いのだけれどときどき紅潮する。美人は花にたとえられるけれど、まさにその通りだと思った。この歩く花のような伯母と、言葉を話すゴリラのような父が姉弟であると、そう簡単には信じることができない。でも、彼女の幼少期の頃の写真を見せてもらうたびに、若い伯母の隣にまだ猿だった頃の父がいるので、この二人が姉弟であることは紛れもない事実であるようだった。
嘘は父の姉弟関係ではなく、伯母の話の中にあった。伯母はパスポートを持っていなかった。日本はおろか、本州から出たこともないはずだと父は苦々しげに言った。土産物はおそらく恋人や友人にもらったものだろうというのが父の推測だった。僕もその推測に概ね賛成であるが、父は伯母を軽い女だとでも言うように「過去の恋人たちから」という部分を強調していたが、僕は友人からの土産であることを強調したい。とは言っても、単にそうであってほしいと思うだけで、具体的な根拠はない。伯母のよく見せてくれる世界の写真は自分の写っていないものばかりで、そのほとんどが絵葉書だった。

両親が共働きだった僕は、よく伯母の住むマンションへ遊びに行った。学校から家には帰らないで、ランドセルを背負ったまま伯母の部屋に行くことも多かった。大抵、彼女はベッドで寝ているか、キッチンのテーブルに座って煙草を吸っていた。そして、日が暮れるとシャワーを浴び、化粧や服の準備をして、僕と一緒に家を出る。僕はそのまま誰もいない家に帰り、彼女は仕事に行くのだった。一度だけ「しごとって何してるの?」と聞いたら、問いにはいつもずばっと即答する伯母が少し立ち止まって考えてから、「嘘をつくこと」と答えた。それ以来、何となく仕事については聞きづらくなったので、彼女の話をただ聞くだけという役割になることが多かった。僕は疑問に思ったことを何でも聞いてしまうので、ときどき伯母を困らせてしまうからだ。
僕が自分のことを熱く話すこともあった。僕はライオンのように金色の髪になることにずっと憧れを持っていた。伯母とその話で何度か盛り上がった記憶がある。僕がライオンについて熱弁したあとはいつも、二人でドラッグストアに行って、イメージしているライオンに一番近い金髪に染まるものを選んで髪を染めたのだった。染めるたびに父は怒ったが、伯母と僕は「もうすぐ夏休みだし」とか、「みんな染めているよ」とか適当な言い訳をしては聞き入れられず、スポーツ刈りにされるのだった。僕は父親がゴリラでも、自分はライオンになれると信じていた。「鳶が鷹を生む」ということわざがあるくらいだから、それぐらいの奇跡が自分に起こってもいいじゃないかと伯母と二人で熱く語り合ったものだった。
そういえば、彼女がよく煙草を吸うので、ランドセルや服に煙草のにおいがついてしまって、学校の先生に喫煙行為を疑われたことがある。ちょうど伯母が僕の髪を金色に染めてくれた次の日だったので、教室の前にわざわざ呼ばれて、みんなの前で先生にクンクンと匂いをかがれるのはどうもばつが悪かった。そのあと、父が先生からその話を聞いて、僕と伯母を叱った。その頃、僕はまだ煙草を吸っていなかったので、主に金髪の方に怒りの矛先が向いた。伯母は「髪を染めてはいけないという校則があるのは中学校からで、小学生は染めてもいいんだ」と主張したが、父は頑としてその主張を聞き入れなかった。伯母と僕が秘策として用意した黒髪ウィッグも、そういう問題ではないのだと言って許してくれなかった。結局、僕の金髪は一週間でスポーツ刈りにされてしまった。

僕が小学校を卒業してすぐに、両親が離婚した。そして僕は、もう何年もあっていない母のところに引き取られることになった。そして、母と母方の祖母のいる大阪に住むことになり、春からはその家の近くの中学校に通うことになった。僕が大阪に出発する前日に、父が携帯電話を買ってくれた。「何かあったら、いつでも連絡してこい」と言ってくれた。
僕はピカピカの携帯電話をもって、伯母の家に向かった。彼女は珍しく活動的に部屋を動き回っていた。どうやら荷造りをしているらしかった。長い髪を後ろで結んで、硬そうな耳がニョキッと出ていた。その耳は少し赤かった。「携帯電話、買ったんだ」と言うと、「そっか、もう一人前だ」と言って、アドレスと電話番号を交換してくれた。「メールは面倒だから、だいたい電話で済ませてね。あんたからなら、いつでも出るから」と言った後、「でもへんな時間に電話してこないでよ」と付け足して笑った。どこかに旅行にするのかと聞いたら、「水のきれいなところ」と即答した。そして、しばらく考えた後、「あと、嘘のいないところ」とも言った。「いない」という表現に僕が引っかかっていると、「嘘というのは、カワウソみたいな腹黒い獣なのだ」と教えてくれた。都会は水が汚いので嘘が増えるというのが、伯母が導き出した結論であるらしかった。
結果的に、それが生きている伯母を見た最後で、僕が大阪行きの新幹線に乗っているときに父から電話が入ってきて、僕は猛スピードで故郷を離れていく新幹線の通路で、初めて電話越しに父の声と伯母の訃報を聞いたのだった。父の声が硬かったのは、電話のせいだけではないように思えた。
新大阪で母親と合流したときに、伯母の死のことを伝えて、すぐに故郷に返してくれと頼んだが、「とりあえずうちに来て荷物を置いていきや、おばあちゃんも家で待ってはるんやし」と言うので、そのまますぐにとんぼ返りというわけには行かなかった。母と母方の祖母はどうも伯母を嫌っているらしく、僕を伯母の葬儀に行かせたくないようだった。そのため、母が仕事に行った後もなかなか家から出してもらえなかった。何とか窓から抜け出して、なけなしの小遣いで電車に乗って故郷を目指したが、結局お通夜には間に合わなかった。新幹線に乗れるだけの小遣いがあれば間に合ったかもしれないと思うと、今でも悔しさがこみ上げてくる。
公民館に行くと、棺桶の前で父が線香の番をしていた。伯母の写真は、何だか嘘みたいにいつも通りの伯母で、涼しい顔をしてこちらを見ていた。その伯母の顔に死の気配や、悲しみの雰囲気を一切感じることはないのに、その写真を見ると何ともいえない寂しさを覚えた。それはカラー写真の遺影と黒い額縁のミスマッチのせいだったかもしれない。そして、棺桶の窓から覗く伯母の顔は、学校帰りに伯母の部屋に入ったとき、ベッドで見かけたいつもの寝顔だった。すこし化粧の雰囲気が違うのは、その化粧が伯母の手によるものではないからだろう。祭壇にはたくさんの花が置かれていて、百合が強烈な匂いを発していた。それは紛れもなく本物の花の匂いだった。
二人で伯母の前に座って、線香番をしていたら、父がとうとうと伯母がいかにして死んだかを教えてくれた。伯母は僕が部屋に入ったときに荷造りをしていたスーツケースをガラガラと引き摺って、駅に向かっていた。彼女はその二日前に仕事を辞めていた。そして父にマンションの鍵を渡していたそうだから、本格的にしばらくどこかに行くつもりだったらしい。そして、駅前の筋の一本手前の大きな交差点の信号を渡っているときに、左折してくる車に轢かれたらしい。ほとんど即死だったそうだ。ちょうどその車がそのまま直進したら警察が検問しているのに出くわすとわかった運転手が、速度を落とさず強引に左折したのが事故の理由だ。その運転手は伯母を轢いて逃げた後、気が動転したのを落ち着かせるために酒を飲んだと供述している。しかも、その男が捕まったときには、ほとんど酔いがさめていたので、飲酒運転での立件は不可能なのだそうだ。「完全な逃げ得だよ」と父は言った。「嘘つきだった姉さんは、嘘に殺されてしまったんだ」と呟いた。僕は必死で反論しようとしたが、いい具体例が見つからなかった。

翌日の葬儀にも、母は仕事を理由に来なかった。朝、父に母から電話が入っていた。形式的なお悔やみを言った後、葬式が終わったらすぐに僕を母のところに帰らせるように伝えたようだった。葬儀屋に委託された葬式は、司会進行をすべて業者に任せてあり、親族はほとんど座っているだけでよかった。お坊さんがお経を読んでいるときに、伯母の棺桶の側にゆかりの品として置かれていた携帯電話が何度も鳴った。葬式が終わっても、電子制御の火葬場で伯母が骨になっていくときにも、骨壷に納まった伯母を父の実家につれて帰るときにも、何度も何度も伯母の携帯電話は鳴っていた。父は久しぶりに父の生家に帰ると、どさっと居間の机の側に座って、伯母の携帯をそっと開いた。
「みんな姉さんの死が信じられないんだ」
「嘘だと思ってる」「メールすれば返事が来ると思ってる」
「まだ届くような気がすると思ってる」「目の前で葬式していようが、骨を拾っていようが」
「それがすべて嘘なんじゃないかと思ってしまうんだ」
そうブツブツ呟くと、携帯を閉じた。

僕が大阪に向けて出発するとき、いつもの癖で伯母の部屋の前まで来てしまった。馬鹿みたいな話だが、伯母の死を伯母に報告しに来そうになったのだ。この向こうで、今でも伯母が暮らしているのではないかと思ってしまうけれど、もうその部屋には誰もいないのである。僕はドアノブに手はかけなかった。彼女がいるなら鍵は開いている。いなければ、閉まっている。それがわかるのが恐かった。
僕の人生から何かが抜け落ちていくのを感じた。それは致死量に近い喪失だった。帰り道は意図的に新幹線に乗らずに、伯母のことを思い出しながら電車に揺られていた。僕の携帯には伯母の電話番号とアドレスが入っている。僕は結局、彼女に一度も電話をしなかったことになる。彼女はいつでも電話しろと言っていたから、本当は今すぐにでも電話をかけて、幽霊でも奇跡でも嘘でも何でもいいから、彼女の声を聞きたいのだけれど、僕は通話ボタンを押すことができなかった。「僕からの電話ならいつでも出てあげる」と言ってくれた伯母の言葉を、僕が電話することで「嘘」に変えてしまうのではないかと思った。
伯母は多くの人に「嘘つき」だと思われている。また多くの人にそう言われている。伯母は「嘘」をつくことが仕事だったからだ。でも僕に対して、「嘘」をついたことは一度もなかった。伯母が僕に話してくれたどのお話も、僕にとっては嘘ではなかったのだ。僕は伯母が大好きだった。彼女は今「嘘のいないところ」にいる。そこで僕からの電話を、首を長くして待っているのだ。


散文(批評随筆小説等) 或る嘘つき女の生涯 Copyright 木屋 亞万 2010-07-18 04:33:23
notebook Home 戻る