散在しつづけるきざはし
豊島ケイトウ
修辞に位置付けられるきざはしの出現はいみじくも重なり合う因果であるが、
しかし私たちの生活を根底から揺るがすほどのナルシシズムを包含しているわけではなく、
ただ、
夕映えから派生する杞憂に似た泡沫はある一定のきざはしにおいて、
段落を伴わない餓鬼ともいえる。
執心の内側で羽ばたく有事に備えひたすら体を鍛えつづけるいわれはない、
と第一回目の世界は眉間にしわを寄せる。
一段一段踏みつけるたびごとに放たれる音波を優雅にかわすすべを身につけるには、
きざはしの球根から汲みとれる単語しか知り得ないので、
完璧なる終末を迎えるためにミニシアターで丸い裂傷を刻まなければならないことだってある。
勿論、
いい意味で階段は愚痴る、
ある日世界に対して。
(薄い希求の建前で妬むものみな)
溺愛の上で敷いた生地のようにこれがメインディッシュだとしたら、
どんなに、
どんなに映像的で美しい述懐だろう。
つまびらかとでも叫びたい憂愁の季節へ服を脱ぎ捨てる方法しかないのだ、
もう。
きざはしの頂に午睡を馳せる前にやらなければならない不自由が台頭している。
いいかげんわからず屋に押しつけるために標榜の足指として後片付けはヒッピーにやらせた方がいい、
言いたいことをよく練り上げていつでもきざはしに微笑む出来映えを想像する方がいい。