ナンと何
番田
私は松屋にカレーを食べに行こうと思う。しかしながら立ちつくした人には吉野屋が向かい側に存在する。街は昨日からのお祭りでたむろしていた人などが吉野屋の手前側を行き交っていて、街の向こうには青い海など見えない。行商人がそこで海辺のように行き交っているだろう。アイスクリーム売りの人や、パラソルを貸し出す人、サーフィン教室の人、サングラスの販売人。子供たちはバレーボールをする子供には気を付けなければならなかった。サッカーをする大人の仲間には加わりたいのかもしれない。指をくわえて見ていれば何かが起こるのかもしれなかったが、松屋で食べる人の少数はカレーを注文しているのかもしれないし、カレーなんて食べられたものではないと言うのかもしれなかった。吉野屋には牛丼はなく、カレーしか販売されてはいないから。
私は何も考えることはないだろう。ここにあるナンにも私を考えることもないのである。そういうふうにして考えながら、人が言うには子供の頃を私は生きてきたそうだ。そういうふうにして、街を流れる川を私はそうすることもなく見てきたような気がする、昨日としてのカレーを食べた。しかし私としての辛めだったということは覚えていない。カレーをカレーたらしめているのはナンではない。カレーでも何でもないのはポケットの中のコインであり、それは無人島の中ではナンに見えるのであろう、何かであることは何かで、あることなのだと、無人島の中では全く主張できないから。しかし都会の中ではナンは絶対的な意味をなす。何らかの一枚ではささやかな朝食の足しにはナンは全くならないが、無人島の中ではささやかな食料となるからである。次にルーについて考えてみよう。
ルーは茶色い。茶色であって、白いのはごはんやナンである。しかし私は黒いごはんというのを見たことがある。しかし白いのはルーの色であったりもするけれど、その色によって器自体とごはんの色が同一化して見えて、食べる人のルーを損した気分にさせることがある。調理人は、そこでルーと器の色とに変化をつける必要を迫られる。これによって私は茶色いごはんというものがそこから生まれなかった可能性にたどりつく。