湾鶴

 太いものはいろいろあるが、
 みんなどっしりとしているわけではない。
 たとえば、ジャンケンの強い
 太一君。
 こいつはふぁ〜として、とてもじゃないが
 横綱のオーラはなんかはちっともでていないくて、
 節分に頬張る太巻き寿司のほうが、ずっと横綱らしい。
 でも、そう感じるうちの、70パーセントは
 あの酢飯を徹底的に包んだ海苔によるものだろうが。
 太太と重ねて書くと、中国語でご婦人という意味になるが、
 日本で太太とくれば、お伊勢参りがでてくるし、
 太だけだと、太陽やら、聖徳太子やら、太政やらと、
 どれもありがたいものや
 ありがたく思われてきたものなんかがある。
 でも最近じゃ太いってそんなに使わなくて、 
 太い大根も、でけぇ大根だし、
 太い声も、低い声だし、
 太鼓判を押すってのも、マジデの一言だし、
 肝が太いなんてのは、言いまわすことすらなくなってきた。
 けれども私の「太」に対するイメージは傲慢にも
 ちゃんとあって、それは、山男の頭だったりする。
 丸太のような腕ならわかるが、なぜか頭。
 山男は、日本語なんて知らないけれど、
 山をエッホ、エッホ、登ったり、
 木をエッホ、エッホ、担いだり、しているうちに
 ガンガン太くなっていく頭があるのだ。
 さぞかし、大変なことだろう。
 そんなことを考えながら
 太鼓焼き(太ってしまうが)を買いに行った私を
 知ってかしらずか、
 太一君は寝息を立てて待っている。


未詩・独白Copyright 湾鶴 2004-10-11 08:26:06
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