キム・ギドク監督 『サマリア』 〜〜ヨルノさんと詩を巡る旅 その1
ヨルノテガム
娼婦(パスミルダ)に憧れる少女を今まで見たことがなかった 少女は年上の男たちを可愛いと思えている 援助交際して稼いだお金を友だちとのヨーロッパ旅行へと積み立て、思いを馳せる こんなパスミルダを活き活きと楽しませる夢とロマンなんてヨーロッパにあるのかしら 少女はベッドで男という一人の生命と交わることで 人間の本質を垣間見る個々のつぶやき声を耳にしていたのかもしれない 少女は娼婦を満喫しつつ笑っていたかと思うと ドン臭く窓から落ちて亡くなってしまう 奇想天外で奔放なアニメや絵物語の主人公がまるで一話で途切れてしまうように。 亡くなるべくして亡くなる人形の、人型の、幻が其処にあり・・・・・・
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そんな友を亡くしたもう一人の少女(主人公)は 父子家庭であった 少年のような一面がふと現れるくらい幼い少女は「女」という母性を自身にまだ見つけられない女学生である
少女の眠りは深い
ジムノペディが流れる
この曲に副題をつけるとすれば 運命の足音 である
キム・ギドクの映画は音楽が良い 映画の中に占める音楽の霊感の割合とは、いかばかりであろうと思う おそらく5割を越すのではないか 映像の後付けに音楽が新たに創られるとすれば一番最初のコンタクトと言っていいかもしれない キム・ギドクは『うつせみ』の冒頭においても音楽の挿入箇所に 音と呼吸の魔法 を知りわかって編集してある 『サマリア』は一種の音楽映像、つまりCMを繋ぎ合わせたような構成を取っている。 一場面に一つのテーマ音楽をつけることで雰囲気は生まれ、幾つか後の場面でまた同じ音楽を用いて 場面の関連付けと心情の深みをなぞらせ記憶させ 流れを形づくっていく この映画は音楽センスが半端なく情緒豊かで鑑賞者に自身の心の襞を新たに気づかせてくれるようであった サティのジムノペディに負けていない
音の配列に情感が宿るとして 物にも映像にも
そして言葉の配列にも 宿ると感じるモノはあるだろう
詩的であること、詩情、情感、情緒、情動。これではまだ言い足りないという時に 正に個別的に?普遍的に?訴えてくるものに対しては「霊感」や「インスピレーション」、辞書には「天来の着想」といった言葉で素晴らしさを表現している そういった思いも寄らない豊かな地点へ誘ってくれる音楽映像の映画であった 詩という表現ジャンルで考え直してみると作中において「作者の考えだけではないという感じ」、「読者の予想も及ばない地点で次々とひらめいていく文章」というものは ほぼ一人芸術である詩の文筆の魅力と言っていいだろう 作者というのは詩という自由な文章フィールドにおいて 予感しつづける旅人 であるのかもしれない
キム・ギドクは美術も担当しているようで 物の使い方、物に込められた意味合い、意図というものに対して完璧に出来上がっている それこそが肝なのだろう 人の表情なども物として捉えるとワンカットごとに神経が行き届いている印象を受ける あと彼は現場で即興的な面もあり、進行と決断が早い というような話があった 物と音楽で繋がった綱渡りをちゃんと鑑賞者の先で渡りきっているのだ
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(つづく)