詩の行くえ
非在の虹
……とある蛙氏が、詩の現状と難解ということについて「私論・詩論・試論」という文章で議論している。
ぼくはこの文章の存在を知らず、きのう初めて読んだのだが、それについて思うこともあるから感想文としてこの文章を書いた。
すでに誰かが書いて重複しているかもしれない。
「現代詩」は読み手がいない、といわれる。少ないのならその通りだろう。
もっとも愛好家が少ないというと「現代詩」だけではない。
「現代美術」「現代彫刻」「現代音楽」「現代文学」・・・・。「現代」とつくと、人気は急落である。
詩はコンテンポラリを捨ててみたらどうだ。ただの「詩」でいいではないか。
ホメーロスからボードレール、柿本人麻呂から萩原朔太郎、みな修飾語ぬきの「詩」ではないか。
詩の世界で言われているかどうか知らないが、現代美術では、この五十年繰り返し言われていることがある。
「作品としての美術は終わった、残るのは行為だけだ」と。
そんなことを言いながら、「現代美術」は営々としてつくられている。
このふてぶてしさに見習うのもいい。
詩書は「初版300から500部だそうです。著名な詩の賞を獲得した詩人の詩集の増刷が300部」しか発行されていない。
この数字にまちがいはないだろう。
なぜなら、クラシック音楽のCD枚数は初版が200部であるから。
類推しても、そうだろう。
それでも世界の小澤はくじけない。
誤解してはならないのは、詩は難解になって読者を失ったのではないということだ。
近代詩に限って言っても、詩はとっつきが悪かったし、読者は多いとはいえない。
今も昔も変わってはいない。
薄田泣菫や蒲原有明など高踏派は読者がつかない。
金子光晴だとて難解だった。詩が売れていたら、あの遍歴記を書いたかどうか。
「詩が売れない」の嘆き節は、今も昔もであり、同時代の詩に理解があった森鴎外も日夏耿之介も嘆いた、脳にかく汗にもカネを出せと。
再三いうが、売れないということにおいて、詩は変わってはいない。
またその外貌に難解さが付きまとっても、売れないということとは別なのだ。
詩人の高橋睦郎はかつて、詩は商業ベースにけっして乗らないことに意味がある、と言った。
いまどき、潜在的書き手(このサイトに集まるぼくたちなど)がこれだけ多いのに売れないのは詩人の僥倖であり、誇るべきことだと。
……とある蛙氏の文章で残念なのは、インターネットなどの、このサイトなどの素人の詩と、ジャーナリズムが売る玄人の詩をごっちゃにして議論していることだ。
玄人と素人の差は質の良し悪しにおいてくらべ難いかもしれない。しかしこれには厳格な差があることは、肝に銘じたほうがよい。
いずれにせよ、書き手は、売れないうけないことをもって、安易に読み易い詩にながれて欲しくない。
読み手は読みにくいことをもって、いたずらに批判してほしくない。
読み易い詩を書くか、読みにくい詩を書くかは、書き手の内的必然がうながすものだ。
田村隆一のライトヴァースへの移行も読者獲得の「営業」でないことは当然だ。
「難解」を敬うこともないが、「難解」を蔑視したり敵視するのは、おろかなことだ。
詩はおのずと自分のまとう衣装は自分で決定する。
そのことも今も昔も変わらない。