真夜中、もやのように消えた昨日までとハエトリグモの文学性に関する考察
ホロウ・シカエルボク




すべてのものが途切れた
俺は寝床で
もやのような昨日までが
流れてゆくのを眺めている
あらゆるものの
スイッチを落とした部屋は
空気の音だけが
反響して


明かりを欲しがる虫が
窓にぶつかる
リードにイラつく犬が
道行く誰かに吠えてる
浴びるほど酒を飲んだ
誰かが低く呻いている
そういったことは


すべてここから少し離れた
公園の中でいつも起こる


すべてのものが途切れた
今は真夜中で
時間などただの
目安でしかないと思える
生きているか生きていないか
読み損ねた本の
拗ねたように折れた25頁の端
音のない部屋に居ると


俺が俺である必要すらない


暗闇の中で考えごとをしてはいけない

昔何かに書いてあるのを読んだ
悪い考えになるかいけないんだと
なにかについて考える時は
明るいところでしなさいと
だけど
悪い考えの
何がいけないのか
俺には判らない
悪い考えが
悪い結果を生むわけじゃない
考えないことよりも
考えたいときに考えた方が
少しはマシになるはずだと


そう
思うわけだ


途切れたものの尻尾は
追うことは出来ない
残されたものは
やがて動けなくなる
動けなくなるものを見ながら
俺は心臓の鼓動を肉体の奥で


感じる


レクイエムよりもロックンロールを
そう望む方が自然だ
誰も見送る必要などない
観念の中だけで死んだものに
正式な葬送など別に必要ない
レクイエムよりもロックンロールだ
失われた器は何かで満たさなければ


どんな夏だって
真夜中は冷たい
どんな夏だって
雨さえ降らなければ


銃口を覗き込む幻想
例えば
いままさに
そんなことをしている男がいたとして
そいつは
引鉄の具合を気にするだろうか
どんなことがあろうと
人差し指はきちんと握りこまれるだろう
俺は考える
死もやはり
ひとつの意志なのだと
どんな結末であれ
「もういい」と
思った時
その時が
死なのだろうと


幼いころ
夏に死んだ
優しかった人のことを思い出す
一度だけ
病室で
お土産の蜜柑を
にこやかに受け取ってくれたひと
名前も知らないままだったけど
あの人が死んだことは
時々確かなこととして思い出す
死ねるやつから死んでいけって
油蝉が泣いていた
死ねるやつから死んでいけって
なにかの解放運動みたいに
同じ夏だったけど
少しだけ違った夏

俺は暗闇の中で考えごとをする
もやのような昨日までが
流れてゆくのを眺めながら
俺にはなにも見送る資格などない
消えてしまう昨日しか
手にしたことのないこの俺に
電灯の笠のあたりから
ハエトリグモガ降りてくる
レスキュー隊の降下訓練のように速やかに
俺の頬の脇に降り
二、三度方向を修正して
カーペットの隅に何事か調べに行く



思ったら


やつは俺の方に向き直る
「またなにかくだらないことを考えているのか?」
余計な御世話だ

俺は答える
「死んでもいないのに死んだみたいなことばかり考えやがって」
余計な御世話だ

俺はもう一度言う
「俺たちは巣を作り
自分に出来ることをすべてして
今日生きることが出来るだけのものを手に入れる
俺たちはそうして生きてるんだ
一日もブレることなくだ」
そうか

俺は答える
それじゃあ
ドストエフスキーの一番好きな作品について一〇〇文字程度で答えてくれ

俺はリクエストする
ハエトリグモはため息をつく
「そんなことで」
「そんなことでうまく
問題をはぐらかしたつもりなのか?
俺はドストエフスキーなんか読んだことはない
だけど
例えば尻から糸を吐きながらこの部屋の窓から二階のヴェランダまで降りたりする瞬間には
きっと
なんらかの文学的な感覚に包まれているんだと思うよ
誰だったかそういう高揚感のことをバタフライ・ナイツって言ってたな」


それはたぶんデビッドボウイが言ってたんだ

俺は教えてやる
ハエトリグモはため息をついて
そうか
アンガトヨ
と言って
俺のもとを去る


俺は
天井を見つめながら
クモが尻から糸を吐いて降下するときに
なんらかの文学的な感覚に包まれているのだということについてしばらく考えた
糸が出る尻
糸が出る尻は
文学的というよりは
詩的というべきかもしれない
だけどそれは
誰にでも通じる話ではないだろう

少なくとも俺は
尻から糸を吐くように
詩を生んできたのだと
そこには
妙な確信があった
俺は目を閉じた
眠るつもりはなかったのに
次に目を開いたら
世界は
朝になっていた




自由詩 真夜中、もやのように消えた昨日までとハエトリグモの文学性に関する考察 Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-06-01 21:42:26
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