日本橋浜町のひと
恋月 ぴの

もしかして美佐江さんだったのかな

週末の都営新宿線本八幡行き
朝方はお出かけの人たちでそこそこに混んでいて
視線に気付かなかった
それとも無意識に気付くことを避けてしまっていたのか
私の斜向かいに腰掛けていたスーツ姿の女性
降り際に軽く会釈したような

発車のアナウンスとともにドアは閉じ
電車は定刻どおりに日本橋浜町のホームを滑り出す

こんなときにはドア際へ駆け寄り
彼女の姿を加速する車窓から追い求めるのだろうけど

結局のところ席を立つことはなかった
単に気が向かなかったのではなく
金縛りにあっていたのだとか
忌まわしい過去と相対することに足がすくんでしまったとか
それなりの言い訳を私のなかに探し出そうとする

改札を抜けA2出口を地上に出れば浜町公園
隅田川を渡る初夏の気配はこれから訪れるであろう過酷な季節へのプロローグとも言えそうで
汗を拭いつつ明治座の建物を仰ぎ見る

観劇の予定でもあったのだろうか
それとも隅田川沿いをひとり思い巡らせながらそぞろ歩くつもりなのだろうか

汗かくのさえ厭わなければ馬喰町まで徒歩でも僅かな道程だから
強いられての休日出勤なのかも知れない

ちらり程度しか見えなかったけど昔と変わらず綺麗だった
私の大切な彼を奪ったひと
そして愛憎の果てにお嬢さんを奪われてしまったひと

因果応報とやら訳知り顔では片付けられない
機会を得て面と向かい合ったとしたら当たり障りの無い近況報告と
彼女の口から出た謝罪らしきことばの端々に拭いきれない苛立ちを覚え

お嬢さんのこと、同情しきれない私がいる

深酔いした和夫さんがふと漏らした美佐江さんの秘密
はじめて夜をともにしたときには下腹部の暗がりにピアスしていて
小振りな鈴なら赤い糸で結わえ付けることもできたのだとか

お産の際には外していたのだろうけど

ちりりん

かすかに響く鈴の音に思わずフレアスカートの前を押さえてみても
している筈も無いピアスの穢れた違和感と

ちりりりん

何ゆえにか私のこころを弄ぶ





自由詩 日本橋浜町のひと Copyright 恋月 ぴの 2010-05-31 12:25:27
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