ピティランドのピティちゃんはヒトが被っているのだと知れば、幼いお友
達は幻滅するだろうか。そして中身が汗みどろの男だとしたら、保護者達
の何人かは警戒するのだろうか。
着ぐるみは苛酷な肉体労働だ。ステージで華々しいパフォーマンスを繰り
広げるのが強靭なダンサーならば、広場や通路で愛嬌を振りまくのも屈強
なアスリートでなければならない。中は二酸化炭素の充満したサウナであ
り、人体にそぐわぬ3頭身の、分厚く密閉された体内で機敏な動作を維持
するには相当の体力と忍耐力が要る。三十分も被っていれば酸欠と脱水の
為に、油断すると足がふらつく。歯を食いしばって集中していないと仕草
が緩慢になる。昏倒同様、なおざりな接客は絶対に許されない。それは夢
を破壊する。中に人など入っていないからだ。Tシャツは結晶化した汗で
すぐ変色してしまう。しかも正規雇用でないから実入りは薄い。
七十年代初頭に登場したピティちゃんを、口さがない評論家はブルーナー
作品の剽窃だの、口のないのが不気味だのと口を極めて罵ったが、カワイ
イものに目がない日本の少女達に爆発的な人気を博した。
それでも人気の定着は盤石をまで意味しない。見飽きられ、九十年代のコ
ギャル達によって救出される迄には、陳列棚の上で捨て猫さながら不遇の
幾星霜を送りもしたのだ。
この第2次黄金期は再び低迷を見る事なく第3次へ移行する。今度はある
意味での社会人類学的選良に人気が及んだのである。
いわゆるハリウッド女優の戦略的セルフ・イメージがセダ・バラの黒い誘
惑やリリアン・ギッシュの白々しい口すぼめというカビ臭い両極を脱した
七十年代以降、更には発展的派生亜種としてのケイティ・ヘプバーンに代
表されるクロムウェル風脱水乾燥、つまり演技派でございます的知性より
も等身大の女の子気質=キャピキャピ を優先する今日のハリウッド・セ
レブがピティちゃんのパピパピ=無垢な可愛らしさ に目を留めたという
わけだった。
東洋ではそこに女性器の暗喩でも見出すのか、手許で口元を隠し淑女を装
う上流社会の風習があった。それが下層階級まで波及したので、我々の文
化では口は小作りを以て優雅とし、一杯の開口は般若などの鬼面や獅子頭
、歌舞伎の隈取りにも示される通り、品の是非もない悪相と見做す。
激動期の島国の風物詩である現地妻、その元祖とも言うべき蝶々さんはそ
れで碧眼の旦那に口臭を疑われた程であるから、感情吐露やげっぷを抑制
する「慎み」という美徳観念が形骸的ではあれ現代も働く我々は、口を略
した意匠にさほどの抵抗を感じない。
まさか小作人生活を下支えした口減らしが前世記憶となっているとは思え
ないが、減らず口を嫌い多言冗語に食傷する傾向は相変わらずある。ディ
ベートよりも横並びの沈黙を尊重する風潮は団塊の世代以降も健在である
どころか、若い世代にこそ事なかれ主義の蔓延は却って深刻なのだ。何し
ろ面白いこと、楽しいこと以外はよろずめんどくせーのが世の習いである
。
一方で時代の変遷と既成概念の打破は同義にして、畢竟その有様は往々傍
若無人を呈して旧世代には不快感を惹起する。
憚るとは自粛を以てする相手への礼節であり増長への自戒でもあれば、豪
胆は壮挙でもあり無恥でもある。が、電車の中で憚りなく顎関節と股関節
とを全開の体で爆睡する女人に対しては嗜み以前に人間性を疑うべきでは
あれ、蔑視より寧ろそれを絶景と寿ぐ男心がまるで自民党支持団体の如く
根強く対座する、このお下劣をこそ端倪すべきではない。
問題の本質は表層にはないのだ。男が女を性具視するのは女の体が魅力的
なせいでも女が馬鹿だからでもない。か黒きリビドーは睾丸と頭蓋を結ぶ
パイプラインを沸騰しつつ疾走する。かくして恥知らずの卑劣漢さえもが
隠微嗜好の我が国では、特徴的に窃視盗撮犯罪が後を絶たない。
仮に、この黄色く短小なセコさと対極を成す国民性を挙げるとするならば
、それはやはり今日も銃声鳴りやまぬ、太平洋の遥か対岸に屹立する若々
しくも偉大な大国であろう。
性犯罪のスケールも大きいこの国では2桁台の連続殺人犯が雨後の筍よろ
しく同時代を震撼させ、所持規制が事実上不可能であるから銃乱射事件に
根絶はない。また歴代大統領の中には盗聴器や喫煙具でのおイタに及んだ
御仁もあるやに聞くが、これに限っては気休め程度の火遊びとして目くじ
らを立てるべきではないだろう。何しろ世界を木端微塵の権限を有する現
人神の重責を担うからには、たまの気散じは欠かせないものだ。
元アル中であれ難読症であれ、少なくともグレースランドで幇間の如くは
しゃぐ人品、ぽんぽん痛や党利党略に苛まれ明日は辞任のお坊ちゃま、コ
ミック本にうつつを抜かす精神年齢・知能指数や世襲の右顧左眄には許さ
れざるのが国家元首の職責というものである。
さて、かの国民性を鑑みるにその根源を見れば当然、原住民族の野蛮な伝
承を否定した上に成った近代国家であるから歴史は浅く、宗教弾圧と貧窮
を逃れて新天地を目指した謹厳な清教徒を祖先に持つが故に、孔雀の尾羽
根の如き虚飾的洗練という貴族的風習が残存しない文化背景がある(ここ
では苦悩に満ちた奴隷の境涯についても言及しない。想像を絶するからで
ある)。そして所有の自由という一大理念を掲げて邁進して来た歴史の中
で、いつしかミスター・エド*にも似た笑顔を人生の指標とし、その屋台
骨となる歯列矯正への強迫観念とレゾン・デートルが分離し難い程に結節
した現代のアメリカ人にとって、笑わない、口さえないマスコットは目に
も斬新な、ローズマリーの赤ちゃん*以来の衝撃であった事は想像に難く
ない。何となれば、グレン・グールドやマリリン・マンソンさえ口を有す
るからである。
こうして視覚的娯楽を享楽する世界人口の約半分から憧憬される女優や歌
姫が手にするや、あっという間に欧米中の女の子気質がこれに呼応し、既
にアジアでは贋作が跋扈していた口を持たないピティちゃんは、青の惑星
でパステルピンクの共通言語になった。
この市場を欲した買収話も当然なかったわけではない。真偽を問うある経
済記者にオフレコを念押した上で、当時の社長は穏やかに言ったものだ。
「猫ちゃんですから。鼠の軍門に下るわけには行きませんよ」
なるほどピティランドは、ドリームワールドとは比較にならぬほど規模も
集客力も小さい。客層は幼児・小学生連れの若夫婦や女子中高生の小集団
にほぼ偏り、平日も老若男女が殺到し、リピーターの恋人達や遠来の旅行
者で溢れ返り、イヴェントてんこ盛りのホスピタリティで時節を問わず客
を誘い込み、修学旅行コースでさえあるワールドとはとても勝負にならな
い。
完璧な演出による非日常と異空間の錯覚が来場客をして海外渡航より格段
に安価な散財に走らせ、帰途の駅階段で途方に暮れるほどのスーヴェニア
を漁らせる光景もない。夢々しさではランドも決して劣らないのだが、フ
ァンタジーのR‐12指定を軽々と凌駕する天地創造を実現する為の資本
と企画力という魔法に乏しい為、いきおい小規模な設備投資にならざるを
得ないのだ。だから当然、全天候型施設の客入りが曜日や天候に左右され
もする、この求心力の欠如は否めない。
早い話がワールドではF・アステアばりのタキシードを着たカリスマを始
めとする人気者達もみな原画に忠実なプロポーションと肉感を有し、人を
してその輝かしい笑顔の下に人体を描出させる余地を微塵も与えない。
躍動する愛嬌が背景の如何に関わらず、既にして現実世界を超越している
のである。その出現場所も遭遇頻度も綿密に計算され、行啓と呼ぶべき範
疇に抑えられている。存在の安売りはしないのだ、馴れ合いは結局夢を壊
す。裸エプロンへの欲情も、見飽きた女房ならそこに有難味は加味されな
い。
だからここには完璧なファンタジーがある。人生(世界)は楽しまなくち
ゃ。満ち溢れるそのメッセージに賛同し、別世界を満喫し、楽しさを分か
ち合っている人々の姿がある。貧困も憂鬱も退屈も失望もない。行列だら
けで不満も不和もない。
人生は楽しい。これが魔法でなくて一体何であろう。
元来動物は笑わない。牙を剥いた猿が交換しているのは威嚇と恭順の名刺
であって、楽土の観念ではない。確かに犬は笑顔らしき表情を持つ。しか
しあれは汗腺の欠如による体温調節だろう。まじめくさった顔を崩さない
猫も、破顔の一瞬がある。しかしそれは欠伸の極点に過ぎない。
動物達が安らい満ち足りている様子に我々は幸福の微笑を投影する。彼ら
が可愛いのは笑うからではなく、我々を微笑させるパピパピの質量と体温
を有するからだ。例えばタスマニアン・デビルは愛敬のある容姿をしてい
るが、可愛がれば指先をなくすだろうから我々にとっては若干質量不足と
いうわけなのだ。
体温とは無論、温血動物に限らぬ生命体への共感である。我々人類は、特
質的に異種生物を愛顧してやまない動物なのだ。これは最強の肉食獣にの
み許された特権の一つである。
しかしながら「冷血な」行為をまともな人間は嫌悪する。自己保存本能を
脅かす凶事に対する恐怖の故である。この恐怖は容疑者の捕縛が完了して
も容易に消えない。不特定多数の人間のはらわたには、人の道なる交通標
語じみた予定調和に感化され得ない犯意がメタンよろしく泡立っているの
を知っているからだ。
一方、その歯牙にかかった犠牲者は「可愛」いでなく「可哀」そうな他所
事として、人々の安堵にくるまれ早速大気圏外へ葬り去られる。
循環の停止した死体は既に腐敗と分解の過程にある。蘇生の可能性が0で
ある上は保存に意味はない。よって不浄な有機物として速やかに火葬炉か
あの世へ収容、記憶からも排出される。生者にとって死は最も忌諱すべき
現象であるから、温順この上ない屍もその点では脅威に他ならない。
間脳動物といわれる猫は、瀕死の同朋には決して近づかない。低体温の嬰
児の世話を母猫は放棄する。瞬時に生滅を嗅ぎ分けた後は、近づかないど
ころか徹底的にその個体を無視する。見ようとしないというより無存在を
遇するような、一瞥をもくれないその冷淡さは、この無邪気な小動物の脳
に生来組み込まれている死生認識の鉄則なのだ。
この避忌本能は人間も同じである。愛情という特異的盲執で強固に結ばれ
た「家族」という社会的最小単位の1歩外では、大脳新皮質自慢の我々に
もこの本能が有効に働く。直径5?の輪の外に悲嘆は決して伝播しない。
他の社会単位にとって何らの重要性も持たない存在の死はドブネズミの死
骸に等しく不快の念をしか喚起しない。知遇を得た事もない有名人の葬儀
に参集する手合いが、隣人の不幸には香典一封でそそくさと事済ますのは
その故である。
いずれ死別の悲嘆に対して余人に為し得る援助はないにせよ、人間の共感
作用など所栓は火事見舞以上のものではない。この地球上に可哀そうな者
達の存在余地はないのだ。
ショーが終わるとダンサーと交代したピティちゃんがファン・サービスに
出る。駆け寄った人々の中心で握手や写真撮影に応じ、子供達の愛情を独
り占めする。
既に汗びっしょりだ。愛されているのは自分ではないが、こうした形で必
要とされる仕事にやり甲斐を感じている。結局、天職なのかな、とも思う
。
今日もそんなお客さん達の中に一組の家族がいる。3歳ぐらいの男の子を
肩車した父親と小学校中学年ほどのお姉ちゃん、写真立てを抱いている母
親と。
男の子以外は心から楽しんではいない。張りつめた顔のお姉ちゃんにまず
挨拶する。
こんにちは、よく来てくれたのね。すっごくうれしいな。
ボクもこんにちは、肩車いいなあ。とっても高いわね。
ピティもみんなをだいだいだい好き!
ピティちゃんは母親から手渡された写真立てを両手で受けて、その女の子
にもこんにちはをして胸に抱きしめる。母親は娘の名を呼びながら泣き崩
れた。
死児の写真を抱いたピティちゃんに激励の笑顔はない。きょとんとした目
で、額を寄せて来た母親と並んで写真に見入り、心持うなだれているピテ
ィちゃんはあたかも途方に暮れ、一緒に泣いているようにも見える。
これはフィクションであり、実在する施設、団体とは全く関係ありません
*ミスター・エド= 60年代アメリカのTVドラマ。主人公の男と
言葉を喋る馬との友情を描いたコメディー。
*ローズマリーの赤ちゃん= アイラ・レヴィン原作
アメリカのオカルト映画、
ロマン・ポランスキー監督作品。