散文詩-彼方に寄せて
黒木みーあ
冬になると、一枚板の壁の隙間からは風が、骨の芯に沁み入るようで、いつまで経っても、身体は温まることがない。だから足先から、這い上がる冷たい手の平にうなされる夜は、一向に眠る気配を見せず、外灯が、かがり火のように灯る窓枠の向こう側では、鳴り止まない風が、並行して木々の、骨身をも軋ませている。
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(( 朝には、硬直し過ぎた意識の半身だけが目を見開いて、わたしのことを動かしています。これがわたしのもつ動作であり、始まりでもあります。わたしの住む家の周りには、まるで城壁のように街を囲む山が、奥へ奥へと連なり、その山々の腹部からは、( 特に、今日のように凍えてしまいそうな朝には、深く重たい霧がゆうらと、鈍い足音で中空を闊歩していくのです。山間から射し込む光は朧気に、僅か先も見えなくなような、そんな、朝がわたしは好きです、それは、わたしの中で始まりか終わりかと言えば、やはりそのどちらでも、無いような気がしています。
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真夜中過ぎの、無人公園。眠ることのない家無しの人々は、使われなくなった遊具を取り囲んで、一斉に火葬を行っている。それぞれ、それぞれが両手には大小の火を持ち、もう、帰る場所の無いものたちには、次に生れていく場所も無いのだと言う。( 凍てついた、夜風に蠢く炎の中では、木造りのシーソーが、番いのまま崩れ、落ち ている。一際大きな声を上げ、弾け飛ぶ。剥がれ落ちた塗装を、もう誰も、心配しなくて済むように、幾重にも連なる火飛沫は、消える間際に枝分かれをくりかえし、暗黒の夜空の中を皆ちりじりに、散っていった。
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(( 眠れない夜はいつも、"声"を聞いていました。夜の、"声"です。それは時に風であったり、車のクラクションの反響であったり、聞こえるはずのない浅瀬の、波音であったりもしました。いつも、耳の奥の方から響いてはわたしの半身を震わせて、瞼の裏側へ夜を、少しずつ少しずつずらしていくのです。絶えることなく"声"は、確かに、わたしのことを呼んでいたのです。
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閑散とした草原を抜けた先にある、雑木林の奥の開けた、ガラン。上を見上げれば、星明かりは一層明るさを増し、無意識にふるえていた胸の鼓動は、いつの間にか独りでに歩き始めていた。見はるかす夜の天板は、手の届く所まで透過し始め、光年の年月を跨いだオリオン大星雲が、わたしの半身を、その一時輝かせていた。耳の奥の、奥の方で、遠音のような耳鳴りがきこえている。( そよぐ木々の根、或いは、暗黒を伝う、散光。訪れた静謐は鼓膜の周りを取り囲んで、膜が張ったような感覚だけが、まるで確かなもののように、もうひとつの半身を包み込んでいた。
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(( 海から、数キロ離れた歩道で、歩いているあなたを見つけた、( あの夜は、呼吸をする度、肺の奥の方から背中にかけて鈍い痛みが走っていました。あなたは既にわたしの声さえ聞こえていない素振りで、わたしは、まだ波音がここに届いていないことが、とても悲しかった。がくり、と、音がしたのではないか、とさえ思う程突然に、わたしの腕にあなたの重さが圧し掛かってきて、痛みが走り、その後のことが、今でも、思い出せないのです。
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焼け跡には、鉄の骨がいくつも残り、かつて、モノであったものの重たさは、まだ少し温かく、手の平に小さな痕を残していた。誰も居ない、無人公園。灰黒色の空からは綿雪が舞い始めて、今や黒く、輪郭だけの家無しの人々を、少しずつ白く染めていった。わたしは、それらをじっと見つめながら、時折不規則になる機械音に、意識を傾けていた。かがり火は淡く、夜露に濡れて、わたしの意識は、わたしの知らない所、窓枠の向こう側で、眠り、呆けているようだった。その空白の中を、脈が打ち、ゆっくりと伝う、遠く半身が、わたしを見つめている。
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(( 今日は、冬だというのが嘘みたいな陽気で、野の道には、数歩先の春を飛び越え目を見開いた、瑠璃唐草が晴天を仰いでいます。ウルトラマリン、コバルトブルー、セルリアンブルー。いくつもの青のグラデーションは、何度見ても飽きることがありません。わたしはといえば、相変わらず、眠る場所を探し歩いてばかりいます。けれど、夜露に濡れた土の、湿った匂いを吸いこみながら歩いていると、不思議な程安らいでいくのがわかるのです。そんな時わたしは、確かにひとつの存在として、ここに、居るのだと感じることができるのです。
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寒さに震えながら草原に寝転がると、眼前の夜は視界の端で円くなり、人明かりひとつないこの場所では、微小の光粒が犇めき合いながら、わたしとの空間を、共鳴し合うその輝度で押し縮めていた。このまま、この場所で眠れたらと祈っていた。ひとつ、またひとつ、薄れた時間の感覚の狭間の中を、遥か大気圏を隔てた暗黒の塵は、長く尾を引いて、燃え尽き、消滅していく。けれど朝焼けが、山間を抜け空が青みがかる頃に、辿り着ける場所をまだ、わたしは見つけることができないでいた。
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(( 夢遊病に重ねて、失語症となったあなたを連れて、まだ一度も行ったことのない浜辺へと歩いていった日、意識のない瞳には、語りかける言葉ばかりが潮風に弾んでいき、波音にさらわれていくものは、決して、言葉だけではありませんでした。まるで赤子のように、手を握れば返す、やさしい反射が、吹く風の冷たさの中で僅かに、ぬくもりを保っていました。わたしは、あなたに眠りつく場所について話をしました。わたしの見た世界の話をしました。あなたは何も言わない代わりに、ずっと目を見開いて、海の向こうを見つめていました。
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冬になると、一枚板の壁の隙間からは、聞いたことのある遠い声が、風のようにひゅるると聞こえ、いつまで経っても、身体の中から出ていくことがない。目を、閉じたまま眠れない夜には、くりかえされる意識の反転に、かがり火のような外灯が道々を、細い一本の線で繋げていく。音が、一時失われ、歩いていく意識の中では、夜はどんどんと落ちていくように、空には数え切れない星が瞬いている。そのひとつを手に取れば、遠く、振り返ればわたしはひとりで、枝分かれしていく火飛沫の先を見つめている。まばたきの一瞬にはいつも、押しつぶされそうな光粒が視界を埋める。向こう側では、相変わらずわたしの半身が手を振っている。どこか、わたしの知らない遠い所で、わたしの行けなかった遠い所で、ちいさく手を振りながら、わたしのことを見つめている。