ねこの進化論
salco

 
猫讃仰フェスティバル参加謹呈

ライオンちゃんは喉が渇いて大変だ。
サバンナでは半年も雨が降らないので、揺らめく陽炎に口を開けて待つ顔
があまり可哀相にも見えないのは、渇望と失望の間で感情が鈍麻してしま
ったせいなのだろう。やっと泥水の施しにありついても、ゾウ達のような
歓喜の様態は見せず、大儀そうに立ち上がって気のなさそうに舌を動かす
仕草が唯一ねこに似ていると言えば似ているが、スー・チーなんかはお風
呂場で水を飲む時、手桶にきらきらとさざ波が立ってマイナスイオンが立
ち昇っているのでなければ、決してこごもうとはしない。さもなければ、
どうして新鮮なお水じゃないの? と怪訝な顔を上げてお給仕を待ってい
る。
これは本能の消退、生態の堕落ではなく種の進化であり、更には個体に於
ける理智の貴族化に他ならない。つまり人間とのコミュニケーションに長
けた猫の、更には溺愛を受けるかわい子ちゃんが賢くもめでたく飼い主を
訓育して来たところのささやかな成果である。

全く、過酷な自然の渦中に身を置いているライオンちゃんは体のどの部分
も強靭に巨大化して、すっかり感情までもが大ざっぱになってしまい、イ
エネコ族と親戚などとは凡そ信じられないのだ。まるで隣町に住む私の従
妹はローランドゴリラだと言われたようなものである。
お肉ばかりをお骨ごとばりばり食べるので、上下の顎が棺桶形に発達し、
それにつれて鼻梁も太く伸び、目があんなに小さく見えるほど長四角の顔
になってしまったその結果、この菜っ葉色した省エネ時代も未だインパラ
やヌーを一家総出で追いかけ回している。
スー・チーなんかは大福サイズのまん丸い頭で、壊れそうな三角形の顎骨
の小さなお口で13歳以上用のお魚ごはんを少し食べては残しして、じゃ
こや桜えびなどは即座にもどしてしまう。お皿に顔を突っ込むような真似
はしないのでピンクの鼻先が汚れたためしもなく、テーブルにこぼしたド
ライフードやツナのかけらを拾い食いするようなお育ちでもない。
獲物の血と臓物片で顔中を真っ黒にしているライオンちゃんとは大違いだ
けれど、食後は汚れてもいない顔をそれこそ丹念に丹念に拭っているのだ

お腹が一杯になるとそれで押し出されるようにうんちをすることもあり、
おしっこをすることもあり、排泄の達成感なのか身軽になった楽しさか、
ハイテンションで暫時走り回った後は、つい全部もどしてしまうことがあ
るものの、大抵は少し遊んでからひと眠りというところだ。
まずは茶人の端座よろしく匣型になり、大分経ってから体を丸くかいこん
で安眠体勢に入る。太い性格の猫と違って、布団や炬燵の中以外で四肢を
伸ばして寝そべるなどはまずしない。それでもレム睡眠に入ると寝息が荒
くなって、撫でられても覚えず細かく痙攣し、寝言を言う時もある。舌を
巻いておっぱいを吸っている夢も見るし、小さく唸って腹を立てている夢
もある。

ライオンちゃんは幾日も食うや食わずで、ありつくには全速力でご飯を追
いかけなければならないという大前提が食前にあり、運よく苦労が実った
としても同じように飢えた連中が獲物の横取りを狙っているという周辺環
境が食中にあり、どでかい腹が獲物を消化すればじき飢えるという因果律
が食後にある。満腹と安寧という生活保証が永劫に得られない、謂わば野
生之王国版・賽ノ河原に生きていれば、寝ころんだとて夢見る暇もない運
命であるから、あんなに猜疑的で獰猛になってしまったのだろう。
こうして自転車操業のライオンちゃんはしかし、イエネコのように毛玉を
吐くことはあるのだろうか。
寸暇を惜しんで毛並みの手入れをしているようにはとても見えない剛い体
毛をしており、ブラシを入れた事のないたてがみは殊に、気の触れた浮浪
者よりはマシという程度で、動物園では檻の50m先からもうアンモニア
まみれのケダモノ臭が鼻を刺す。
スー・チーなどはお尻に鼻をつけて嗅いでさえ、微かなパティスリーの香
りに陶然とするばかりだ。表側の尻尾の付け根は本当にカカオの匂いがす
るし、耳の後ろや頬はヴァニラの匂いさえある。一度としてお風呂で洗わ
れた経験がないのは同等でも、また何という違いであろうか。

次いで不思議なのはその尻尾の違いで、イエネコを含め他の猫科動物はま
っすぐなのに、ライオンちゃんに限ってはその先端が箒のように毛羽が長
いことだ。ゾウでもわかる通り、単にこれはパパラッチ(蝿)を払う為の
便利なのだろうが、本当にそれだけの意味なのか。
たてがみと共にどんな差異を象徴しているのか、動物学者に確認する必要
はあろうけれど、トラやチーターにさえわからないものを、人間に訊いて
みたところで得られるのはどうせ推測だけだろう。
しかし何と言ってもねこ族一般との著しい違いは体の大きさであり、牙も
爪も肉球も、サイズの違いがライオンちゃんには大きく毀誉褒貶している
ようだ。
過酷な生存競争の中で強くあらねば自己保存が叶わず、強くあらねばなら
ぬからこそ大きく在り、乳児期の愛嬌と虚弱は死を必定として成長と共に
その生態からすっかり剥ぎ取られてしまうので、人間社会に移植されると
いう不如意な安穏の中でも変わらず彼らは餓え、吠え、猛り、交わり、そ
の頑丈な頭蓋骨の中のアフリカで生き続けなければならない。
全く、米粒みたいな牙と爪では世界中のねこが束になってかかっても永遠
に敵わないほど百戦錬磨の強大なライオンちゃんだが、その面構えが小さ
く進化したねこより百万年がた耄昧愚劣に見えるのはこの故だろう。

それでもいつか、居住環境の人為的変化によって故郷の同朋が全滅した後
も、ケチなサファリパークや陰惨な檻の中でビタミン添加の死肉を投げ与
えられるまま弛緩し切った生を日がな横たえて幾百代と過ごす内に、何ら
かの小型化がライオンちゃんの頭蓋の内外にもたらされる時が来るだろう
か。
その昔、ジョイ・アダムソンという養母に対する認識を野生本能拡大の中
にも強固に保ち続け、猛獣社会との境界線上に長く踏みとどまった雌ライ
オンのエルザという伝説的個体例とは異なり、かつて人類の祖先がそのひ
弱さ故に四足歩行と丸腰から脱却し、この地球上で唯一「食えない」動物
になりおおせ、捕食者としての玉座を獲得したように、又オオカミやヤマ
ネコがその昔、生活手段の安定供給を求めて屈従を交換条件に百獣の王の
庇護下へ甘んじて入ったように、猛々しい本能の逐次的軟化の外側で種の
小型化が始まるとすれば、それは牙でも爪でもなく、まず尻尾の先端にそ
の兆しが現れるのでないかと私は思っている。
食い物を牛耳っている人間の縄張りに蝿は存在を許されないから、毛ばた
きはもう不要だ。厩舎には尻尾のロン毛を三つ編みにされた馬さえいるが
、ヴァイオリンの弓には原材料であり、牛舎では垂れ流しなので蝿がどう
してもまとわりつくが、どうせ牛は生かされる運命にない。何にせよ、ラ
イオンだってゴリラだって、絶滅よりはイヌにでもなった方がマシなのだ
。無論、その頃にはとうに人類が絶滅しているので、主観的地球史など存
在しはしないのだが。


散文(批評随筆小説等) ねこの進化論 Copyright salco 2010-05-09 22:41:16
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